ミシンと衣服の経済史 第3章:ミシンの東アジアへの普及

ミシンの歴史
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ミシンの東アジアへの普及 : 第1部 第3章

この記事では『ミシンと衣服の経済史』に関するご質問のうち、第1部第3章「ミシンの東アジアへの普及」についてお答えしています。

授業で質問して頂いた学生方々も含め、これまでご質問を寄せて頂いた方々に感謝いたします。

統一感を持たせるために文章の一部を変更し、簡潔な見出しをつけています。質問のはじめに♣、回答のはじめに♥をつけて区別します。

シンガー社の日本進出拠点

♣59頁にシンガー社が横浜と神戸に2店舗を開いたとありますが、なぜ東京や大阪ではなかったのですか?港がある方がいいからですか?

♥シンガー社の資料を詳しく見ませんでしたが、仰る通り貿易港に近いという利点が考えられます。1902年頃には東京と大阪に進出します。1906年にはシンガー裁縫所学院を開校(東京に)。

中国工場の西部移動

♣中国西北部で、日中戦争の戦火を避けるため、寧波に集中していた工場を西北部に移したとあり、3分の2を周辺地域からの移送に頼っていたとありますが、どの辺りの地域だったのか、また、時給自足を目標にしたにも関わらず、出来なかったのは、何か経済的理由があるのか。(79頁1行目以降)

♥寧波は上海の直ぐ下。かなり九州に近いです。寧波に工場が多かったのは(商社なども多い)、アヘン戦争で開港した5港の1つだったからです(他に上海、福州、アモイ、広州)。甘粛省などはウィグルの東隣辺り。

甘粛省だけで日本の本州よりデカい。

あと、自給自足について、当時の布の大部分は織物で、技術的には自給自足できそうなものですが、難しかったのは、日本帝国軍が空を飛びまくっていたので空爆が一つの原因に挙げられます。

よって軍需用織物が最優先されますが、局所的に勝ったり負けたりなので、双方とも布や服がボロボロになっていたかと思います。どんどん服が破れていくので、供給が間に合わない状態だったと思います。

足踏式ミシンが普及した旧満州南部地域

♣77頁に毛皮のコートのような厚手の衣料には足踏式ミシンが利用されたと書いてあるが、ではなぜ80頁にあるように北部ではなく南部地域で足踏式が普及したのか。

♥「南部地域」は「旧満州」の南部地域のことで、南から順に今の遼寧省(省都が大連)、吉林省、黒龍江省。これら東北3省は中国全体ではかなり北部です。

なぜシンガー社は日本を軽視?

♣シンガー社は何故日本市場への進出を後回しにしたのでしょうか?

明治維新後の日本は西欧諸国ほど市場が大きくないにしろ西欧諸国の植民地と比較したならば、そこまで小さな市場ではないはずです。

また当時はイギリスなどの西欧諸国との貿易に関してもそこそこ盛んだったはずでシンガー社が日本に進出していてもおかしくないと思うのですが?

♥理由は、シンガー社が巨大地域および大国を見ていたからです。

東アジアでは清(中国)しか目に入りませんでした。本文に明記したとおり、1850年代から北米・南米へ進出し、1860年代にイギリス筆頭にヨーロッパへ。ついで植民地へ、1980年代にロシア、オスマン、清に進出しました。

西欧諸国の植民地は日本より大きい市場がありました。代表的なのはインドです。

米国で手廻式ミシンが余った意味は?

♣59頁8行目。米国で手廻式ミシンが溢れたということは、米国でそれが大量生産されていたということなのか、新しいミシンが既に販売されていたということなのか。

♥第2章に述べたとおり、米国では1850年代に手廻式ミシン、1860年代に足踏式ミシン、1890年代に電動式ミシンと、動力が変わっていきました。ですから、輸出政策は、米国内に余った手廻式ミシン(やがて足踏式ミシン)を売りさばくことから始めました。つまり在庫処分。

シンガー社の外国販売店はなかったのか?

♣シンガー社の東アジア支店やシンガー社製品販売店ではアメリカ本土からの輸入品のみの販売しか行っていなかったのか?

もしそうなら、なぜシンガー社製品をコストが浮く販売国ではつくっていなかったのか?

シンガー社は低コストの国を模索していました。いずれ操業するスコットランド、ポドルスク(ロシア)などです。

東アジアに関しては、138頁の図2のとおりです。おおむね米国製が増えています。ミソは英国製ミシンです。

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