この記事ではイギリス産業革命で開発された紡績機や力織機にくらべ、ミシンの開発が遅れた理由を説明しています。
糸・織物生産と衣服生産との比較
まず糸・織物生産と衣服生産とを比較し、イギリス産業革命で糸・織物生産用の機械が開発されたことにつなげ、最後に衣服生産用にミシンが開発された経緯について述べていきます。
紡績機や力織機に比べて、ミシンの開発や産業化は遅れました。結論からいいますと、遅れた理由には次の点が挙げられます。
- 人類は早くから、糸と織物を納税したり商品化したりしてきた
- 人類は長らく、家族のために無料で服を作ってきた
納税品・商品としての糸・織物生産
人類はかなり昔から糸と織物を納税の対象にしたり、その余剰を市場で売りさばいたりしてきました。
広く知られるのはシルクロード(絹の道)です。シルクロードで売買されていた商品は、中国方面から絹糸・絹織物、トルコ方面から馬・羊などでした。そのため、シルクロード貿易は絹馬貿易ともいいます。
日本では律令体制の成立とともに税制が形成されていきます。日本史でいう租庸調(穀物・労役・織物)です。調の主な対象だった織物はとくに絹織物が指定されました。
もっとも、徴税側にも納税側にも色んな問題が出てきて例外措置も多いのですが。その一例に織物を納税できない場合に塩その他の物産でカバーすることが挙げられます。その中に実は糸も含まれていました。
糸は例外措置と考えられるので、律令格式をみていますと織物生産部署が糸生産部署よりも大きな人数を必要としたことがわかります。とはいえ服生産部署に比べるとかなり小さいです。
織物は古くから規格化されていたことも留意したいところです。絹文化圏では、日本で約37センチ幅、中国で約48センチ幅でした。
中国よりも経済的に出遅れた感の強い羊文化圏ヨーロッパでは、中世の頃ですが100センチほどの幅でした。中国をはじめとする東アジア圏域で織物の規格化が進んでいたのは納税品に指定されていたからです。
後にヨーロッパも規格化していくわけですから、中世になるとかなり広い範囲で織物幅が規定されていったことになります。
家族のための衣服生産
家族のために衣服を生産することは無料で生産するということです。
経済史学では非商品生産や自家消費目的の生産などといわれますが、長ったらしいです。経済学は商品から考える学問なので仕方ありませんが、歴史的には何でも非商品が先に存在します。
人類は長期間にわたり糸や織物の商品化や規格化を進めてきましたが、なぜ衣服をそれらの対象としたなかったのでしょうか。逆説的な説明になりますが、その理由は衣服が規格化しにくいものだからです。
今では伸縮糸が開発されたりニット素材が普及したりして、個々人バラバラの体形にそこそこ適合するようになりましたが、時間を遡るにつれ服は人体に適合しません。
ですから、古代人は糸または織物まで生産するか購入するかして調達し、その後に家族用に服を作るしか、服の調達方法はありませんでした。
イギリス産業革命では紡績機と力織機が開発された
ミシンはイギリス産業革命で開発されなかった
変わった見方になりますが、ミシンはイギリス産業革命で開発されなかったという経緯があります。産業革命で開発された最初の機械は糸生産と布生産に関するものでした。
東インド会社をつうじてインド綿花を輸入していたイギリスは綿花を綿糸に加工する機械と、綿糸を綿織物に加工する機械、つまり、紡績機と力織機を開発改良していきます。
次の表を見て下さい。
時期と地域の偏りが明らかに、紡績機と力織機が早めにイギリスで、ミシンが遅めにアメリカで開発されていたことが分かります。
西暦 | 紡績機械 | 織物機械 | ミシン(縫製機械) |
1733 | John Kay (U.K) | ||
1755 | Charles T. Wiesenthal (U.K.) | ||
1764 | James Hargreaves (U.K.) | ||
1769 | Richard Arkwright (U.K.) | ||
1779 | Samuel Crompton (U.K.) | ||
1785 | Edmund Cartwright (U.K.) | ||
1790 | Thomas Saint (U.K.) | ||
1793 | (Eli Whitney, U.S. ~cotton gin) | ||
1825 | Richard Roberts (U.K.) | ||
1828 | John Thorp (U.S.) | ||
1830 | Barthelemy Thimonnier (Fr.) | ||
1832 | Walter Hunt (U.S.) | ||
1846 | Elias Howe (U.S.)→実用化 | ||
1849 | Benjamin Wilson (U.S.) | ||
1851 | Isaac Merritt Singer (U.S.) | ||
1854 | Wilson, business with Nathaniel Wheeler (U.S.) |
紡績機と力織機はいわばミシンをはみごにして共進化という発展を遂げていきます。それを確認していきましょう。
共進化した紡績機と力織機
紡績機は粗紡機や精紡機など数工程単位に数種の機械を含み、それぞれが開発によって別の開発を生んでいきました。
紡績機と力織機においても同じ関係があります。
紡績機各種が開発されていって織機が手動木製のままだと、イギリスでは糸が余る状態になります。そこで力織機が開発改良されていきます。
力織機の性能が上がり過ぎると今度は糸不足になるので、紡績機の性能向上が求められていきます。
共進化以外の見方
精紡機、(ジェニー)紡績機、力織機、ミシンの4種の機械がこの順に開発された総体をもって繊維産業全体の自動化とみる観点もあります。ミシン開発によって自動化が完了したとみる観点です。
これはシンガー社の元従業員ドン・ビッセル氏が自著39頁に述べています。
ミシンを念頭に置けば繊維産業の定義は拡大されます。
ミシンの不思議 : なぜミシンは小型か
そもそも、紡績機や力織機は、3部分から構成される道具としての前史を備えていました。
すなわち、
- 直接に作業を行なう部分
- それを可能にさせる機構部分
- 動力を伝達する部分
の3点です。
これに対し、ミシンの前史は縫針という道具にあり、これは①のみに関わる道具でした。
産業革命は、①に関し作業内容が変化したこと、③に関し蒸気力などの動力革命が遂行されたことの2点に求められます。同じ道具とはいえ産業革命が縫針を捉えることはできませんでした。
そもそも、紡績工程は繊維を束ねたり長大化させたりする作業であり、繊維の拡大が実現します。織布工程は原料糸を経糸と緯糸から織り合わせる作業で、線から平面を作り出す作業となります。このような長大・拡大化とは異なり、裁縫工程は加工的側面が大きいです。
手作業段階で細かい技術を要請する裁縫は、指先の技術や針に集中してきた歴史が長いですね。このように考えると、ミシンは①のみの針から、①~③を備えた機械へといきなり変化した機械であったといえます。ミシンの不思議の一つです。
ミシンが大型機械となり得なかった要因には、次の点が考えられます。
紡績機や力織機が工場へ累積したのに対し、小型ゆえにミシンは工場と家庭双方へ累積しました。ミシン普及と衣服産業化の速度は、他の繊維部門以上に急速に行なわれ、20世紀転換期に地球規模で進行する勢いをみせました。
なぜミシンの開発は遅れたか:衣服は規格化が難しい
インド綿花をイギリス製綿織物にまで加工していくことが産業革命の勃発要件だったわけです。
ついでにイギリスはミシンも開発すれば良かったのにというオチを求めたいところですが、先ほどの規格化の話をふまえると、そうはいきません。
衣服は規格化が難しい
古代から人類が家族のために衣服を無料で生産していた理由は、糸や織物に比べて衣服が規格化しにくい特徴をもつからです。
既製服のサイズ表示は消費者が製品を選ぶときに確認する重要な行為です。これに対してアパレル業者は正当な表示を行なう必要があります。
しかし、戦後の1952年に定着した衣料品のサイズ表示は、7号・9号・11号などの号数表示や、S・M・Lなどの記号表示のみで、おまけにメーカや小売店によって若干の相違がありました。
そのため日本では(外国でもそうでしょう)、1980年のJIS規格改定など、しばしば衣服のJIS規格が変更されてきました。どうも日本は戦時期の標準服という幻想に囚われてきたような気がします。
それでも、身体には体系や体格が固定されない条件がつきまといます。この条件が多くの工業製品とアパレルが異なる点です。
規格化しにくい物を作る方法
規格化しにくい物は家内での無料生産に委ねるのが人類史からみて手っ取り早い方法です。
他方で規格化できるものは手動でも自動でも速く多く作っていこうというのが世界経済史からみた生産の動きです。
ですから、イギリス産業革命の最中に糸と織物が世界中で溢れかえる状態にあっても、しばらくミシンの開発が進まなかったわけです。
繊維⇒糸⇒織物⇒衣服
という3工程のうち衣服生産(3つ目の「⇒」)は一番やっかいだったというのが、ミシン開発の遅れた理由です。
具体的には規格化しにくいことに尽きます。ヨーロッパで採寸しやすくなったのは1820年代にメジャーが開発されてからに過ぎません。
これに付随する理由には、主に縫う作業が中心なミシンでは織物や編み物などの布を裁断することはできず、ミシン開発は同時に裁断機開発を要求するからです。
難しいところですが、裁断機の開発もまたミシンの開発がなければ意味はありません。
上の記事は、産業革命だけでなく歴史家の分析対象からもミシンが外されたことを憂い、他方で現代企業の経営システムへの影響などポジティブな側面にも注目して書いています。併せてお読みください。
終わりに:いったん産業化されるとスピードアップ
ジョン・スティール・ゴードンは、衣服生産の遅れた産業化は、いったん開始すると速くなったと述べています。
ミシンが開発されると、衣服生産はすぐに産業化されました。というのも、労働者1人あたりのミシン1台の価格は安く、非熟練労働者をマスターレベルに訓練しやすいからです。低価格の労働力を大規模に供給されるところではどこでも、たとえばニューヨークなら19世紀後半には移民労働力を使いましたし、現代社会は第三世界を使っています。
John Steele Gordon, The Business of America, Walker & Co, 2001, p.53.https://amzn.to/2YYoTi7
他の発明と同じように、ミシンの発明や開発は一人の人物によって進められた訳ではありません。
しかしジョン・ゴードンは、一人の人物によって集約される段階が来るとも述べていて、面白いです。
ミシンの発明ラッシュや開発ラッシュは、こちらも併せてお読みください。
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