時代が変わればシュールも変わる

ミシン開発史:19世紀中期アメリカに誕生するまで

開発・特許・競争
この記事は約14分で読めます。

手縫いだけの時代

19世紀の中ごろまで、世界中の人々はすべて服を手作りしていました。

家族がかりで針と糸を使って、ズボン、シャツ、ドレスなどを縫っていました。一日中作業され、ときには夜更かすることもありました。

セイラーたちは海を渡るために船の帆布を作ったり、西部旅行のためのワゴンカバーを作ったりしました。

毎日、女子たちは数時間も細かく注意深いステッチ(縫製)に時間を使っていました。幼いころからステッチを習得し、大人になると家族の着る服をすべて作りました。

Image by MeHe from Pixabay

「なぜミシンの開発は遅れたか」

なぜミシンの開発は遅れたか」に述べたように、18世紀中ごろにスタートしたイギリス産業革命では、糸生産用の諸機械(まとめて紡績機/spinning machine)や織物生産用の機械(力織機/power loom machine)を開発改良し、ミシンは開発すらされませんでした。

そして、糸と織物は世界中で溢れかえるようになります。

ですから18世紀中ごろからミシン実用化の19世紀中まで、衣服を手で作る作業には極度な負担があったと思います。多少とも布までは手に入りやすくなったので、布を衣服や雑貨にどんどん消費していくという負担が増えたはずです。

ミシンが実用化されたのは19世紀中ごろですが、ミシンのアイデア自体は18世紀に登場しています。18世紀・19世紀に特許権の形でミシン開発は具体的な形をもっていました。

その状況を次にみましょう。

1830年代まで

初期ヨーロッパの試み:特許と発明の痕跡

ミシンの特許は1755年にイギリスで、1819年にオーストリアで、1826年にアメリカで取得されていました。18世紀のフランスではミシンは工業用に設計されました。

1755年、アメリカの発明者、チャールズ・T・ヴィーゼンタールは針を回転させる必要をなくすために、二重尖針を設計して特許を取得しました。

トマス・セイント

ロンドンを拠点とするキャビネットメーカーを営んでいたイギリスのトマス・セイントは、1790年7月17日に皮革類を縫う環縫ミシンを発明し、特許を得ました。

これは、靴、ブーツ、スリッパ、下駄などを組み立てるように設計された機械の英国特許「1764」です。この特許は現代の縫製概念の一部を生み出しています。

このミシンの操作は鈎針編み(カギバリアミ)の手の動きを模倣し、平らなテーブルの上に吊り下げられた垂直に取り付けられた突き錐を採用しました。ハンドクランクがカムリンクシャフトを回転させて、突き抜けて革の穴を貫通しました。ノッチ付きのアイレス針で、スプールの糸を穴に引き込みます。

またトマス・セイントは自分のミシンが布を自動供給したと主張しました。しかし、断続的には巨休できませんでした。もし、セイントのミシンがアイポイントの針を使っていたならば、後代のシンガー社の発明を先取りしていたかもしれません。

このミシンは、ノミで革に穴を開け、穴の上に糸を置いて押し込み、その糸を鉤状のもので裏面に引き出して縫合するものでした。針元が不完全だったようです。

トマス・ストーン

1804年にイギリスのトマス・ストーンとジェームス・ヘンダーソンは縢縫ミシンの特許を得ました。

このミシンを1814年にオーストリアのヨゼフ・マデルス・ペルゲルが機械化しました。

翌1805年2月14日にパリにいたトマス・ストーンは自分の名前で「すべてを柔軟にセグメントの側面を結合するためのミシン」を根拠に特許侵害防止法を取得しました。ストーン氏は彼の機械が「軍隊と海軍のために服を準備するのに特に役立つだろう」と主張しました。

この時の発表したた報告は維新1台で「百人分の針」と同じくらい生産できると宣言しています。しかし、残念ながらストーン氏の可能性ある繁栄の記録はまったく残されていません。

他の欧州発明家たち

トーマス・ストーンの後、多くの初歩的な綴じ機や縫い期はは商業現場では用途が限られていました。

残念なことに、これらの機能は不十分な装置だったので、ほとんど公衆の興味を引きませんでした。そして25年のも間、自動縫製装置を開発することは欧州でも米国でも不可能でした。

また、フィラデルフィアのヘンリー・ライは、革を縫う機械を発明して、1826年3月10日に特許を取得しました。

しかし、これらの事例を証明する記録やモデルが見つかっていません。

ミシンの現物が残っているのは、次のティモニエによる制作物が最古だと思われます。

バルテルミー・ティモニエ(バーシレミー・シモニア)の登場

諸説がありますが、フランスでミシンを開発したバルテルミー・ティモニエ(バーシレミー・シモニア)は、実用的なミシンを開発した最初の人だと述べる文献が一番多いです。

織機の記憶

ティモニエはフランスのサンテティエンヌに住んでいました。小さい頃はアンプピュイに暮らし、この街は当時フランスのステージ産業だった織物業が盛んな街でした。どの民家のリビングにも織機があり、横に飛ぶシャトルの音が賑やかだったといいます。

学校を修了してから、彼は機械工として仕事を始めました。

彼は、針を上下に動かすホイール駆動のコネクティングロッドに針を取りつけました。

仕立屋創業とミシン開発

1825年に仕立屋(テーラー/tailor)を開店しました。当時、過酷でも遣り甲斐のある仕事の一つが仕立屋でした。

その傍らで秘密裏にミシン研究に没頭しました。

1929年にミシンを開発し、翌1930年に特許を取得。同1830年に最初のミシン実用化をめざして、両針を使いました。

ティモニエの開発には、国立高等鉱業学校サンテティエンヌ校の教師M.フェラントがパトロンとして控えていました。

1830年7月30日に、ティモニエは全て木製のミシンを開発します。鈎針編(かぎばりあみ)のように引っかけた針でチェーンステッチを作り出しました。これで特許を取得します。

そしてミシン製造所兼販売所を開業するにいたります。彼の製造販売したのは環縫ミシンでした。

しかし、クリミア戦争に赴くナポレオン軍に80台のミシンを1度か2度提供し、自らも同軍向けの軍服をいくつか製造しただけに終わりました。手縫いテーラーたちが1841年にティモニエの店を潰したのです。「手縫いの仕事を奪う」との理由でした。

当時のフランスはイギリス産業革命の影響でイタリアとともに停滞し、イギリスが絹織物業や綿織物業の世界競争で中心的な存在になっていました。その結果、フランスでは手縫いのアパレル産業が進展し、ついでにデザイン部門にも注目が集まっていました。

このような背景から、フランスでは裁縫を仕事にする人たちの神経がピリピリしていたのかも知れません。ティモニエの工場は2度も焼かれています。

イギリスへの移住と実用ミシンの完成

ティモニエはテーラーたちに邪魔されないために、イギリスに移住しました。

彼はオリジナルのミシンを改良するために、1845年に追加的に英国と米国で特許を取得しました。

しかし、ラッダイト運動の結果、ティモニエはイギリスでミシン開発を進めることができませんでした。

新しく特許を取得したティモニエのミシンは、毎分200ステッチ、つまり手縫いの14倍の速さで動いたといわれます。とはいえ、イギリスでもアメリカでもティモニエのミシンが日の目を見ることはなく、1857年7月5日に彼は亡くなりました。

ティモニエもまた、世界中で溢れかえった糸と織物を捌くために動いたのであり、手動の裁縫業者たちもイギリス産業革命を起因とする点でティモニエと同じ穴の狢(おなじあなのむじな)です。

ミシン開発がブレイクスルするまでには、もう少しだけ時間が必要でした。

フランスのローヌ地方アンプピュイにはティモニエ博物館があります。

関連リンク The Most Important Sewing Machine Find this Century – バルテルミー・ティモニエが開発したミシンの最初機と最後機を紹介し、簡潔に電気を記しています。

関連リンク 2018年 Musee Barthelemy Thimonnierへ行く前に!見どころをチェック – トリップアドバイザー – トリップアドバイザーのバルテルミー・ティモニエ博物館のページ。博物館はフランス東部のローヌ県アンプピュイにあります。口コミによると、この付近でミシンを発明したのは6人がかりだったとか…。

1840年代までミシン先進地の欧米諸国もミシン開発に停滞

フランスではミシン開発は早期に着手されたものの、ミシン産業としての展開は不拡大に終わりました。

そして、ティモニエの前後、人々は、ヨーロッパやアメリカでで半世紀にわたってミシンを発明しようとしてきましたが、大きな成功を収めませんでした。

ドイツの経済学者カール・マルクスは既製服生産を「die Produktion von “Wearing Apparel”」(「既製服」生産)と英語で書くしかなく、適当な用語は存在しませんでした。イギリスやドイツなどにおいても、1860年代の段階で衣服産業は端緒についたばかりだと考えられます。

出典 Karl Marx & Friedrich Engels, “Werke, Band 23“, Dietz Verlag, 1962, S.494.

そして、ミシンは1840年代から1860年代の間に、アメリカを舞台として開発ラッシュに突入します。

環縫ミシンの開発小史

これまで紹介してきたミシンの発明や開発は、本縫ミシンか環縫ミシンか明らかでない点も少しあります。おおむね、いろんな本では環縫ミシン開発がミシン全体を開発を引っ張ったとしています。

イギリスのトマス・セイントは1790年に環縫ミシンを世界で初めて作ったといわれます。

このミシンは水平送り板、垂直降下の実錐、実錐孔に糸を通す叉状棒、それを指示する腕、布の自動送出など「現在のミシンの要素となっている部分の基礎形を多く備えていた」といわれます。

その後、環縫ミシンは改良されていき、19世紀前半のアメリカに限ると、ジェイムス・ギブス(James E. H. Gibbs)、チャールズ・ウィルコックス(Charles H. Willcox)、ロビンソン・アンド・ロパー(Robinson & Roper)らが製作をはじめました。

しかし、当時の環縫ミシンにはデメリットが多すぎました。

  • たとえば、使う糸の量が多い
  • 縫目が膨らみ糸の締りが弱い
  • 1本糸では解けやすい

といった欠点を当時の環縫ミシンはもっていました。

ジェイムス・ギブス(James E. H. Gibbs)、チャールズ・ウィルコックス(Charles H. Willcox)は、後に共同でウィルコックス・アンド・ギブス(Willcox & Gibbs)社を設立しました。

次の図は、意外に別物として開発されてきた両者の発展を系列にしたものです。

縫製機能から区別したミシン種類の概念図

縫製機能から区別したミシン種類の概念図 via 井上孝編『現代繊維辞典』(増補改訂版、センイ・ジヤァナル、1965年)、田中千代『服飾事典』(増補版、同文書院、1973年)

系列の2つのスタート(環縫ミシンと本縫ミシン)がはっきりしてくるのが、1840年代のアメリカでした。

1840年代のアメリカ:ウォルター・ハントとエリアス・ハウ

ウォルター・ハントの本縫ミシン

1840年代アメリカでウォルター・ハント(Walter Hunt)は本縫ミシンを開発しました。

ハントの発明は振動腕を設置し、織機に似た糸運びを揺動させて糸環を作り、そこに針糸を通過させたことに意義がありました。これは本縫ミシン(=錠縫ミシン/ロック・ステッチ・ミシン)にジグザグ縫機能をもたせた最初のものでしょう(この仮説が当たっていればハントはジグザグミシンの発明者といえます)。

エリアス・ハウの躍進

エリアス・ハウのポートレート

エリアス・ハウのポートレート

他方、本縫ミシンを発展させ、環縫ミシンの状況をも一変させたのがエリアス・ハウです。

アメリカのエリアス・ハウは服を作るための新しい方法を思いつきました。

1844年に環縫ミシン(チェーン・ステッチ)を開発し、1846年に最初の実用ミシンの特許を取得しました。このミシンを一部では本縫ミシンだったと伝えるものもあります。ボビンケースを1846年に導入したとも指摘されることが多いので、本縫ミシンとみなす説もあります。

ボストンにてハウは、精密機器を製造・修理していたアリ・デイビスのもとで働いていたときにミシン(ソーイング・マシン)という言葉を初めて耳にしました。

関連 環縫ミシンから進んだミシン開発

404 NOT FOUND | ミシンの世紀
ミシン未経験者とたどるグローバルな旅

ハウは、丹念に発明を発展・完成させるために手を尽くしました。

そして、5年間の労苦をかけて作業に専念しつづけた結果、1845年4月に、最初の実用的なミシンを完成させました。

彼の論文(特許出願書)は1845年9月22日に特許庁に重要書類として提出され、1846年5月17日に特許権を取得しました。

なお、アメリカのオーライ・ビー・ウィルソンは1840年代中ごろに回転釜を使った本縫ミシンを開発しました。回転釜はその後の本縫ミシンの基礎を作りました。

1850年代:米国ミシン製造業の勃興

その後、米国では環縫ミシンと本縫ミシンの両方で開発が続けられ、1851年のアイザック・メリット・シンガー(Isaac Merritt Singer)の登場をもって完成感が出てきました。

シンガー

アイザック・メリット・シンガーの特許(US10597A)は1854年3月7日に発行されました。

この特許はエリアス・ハウの概念をふまえて、後部に針を保持する剛性アームと針の上向きストロークに対して、布を押さえる垂直バーを含めたものでした。

参考 US10597A – Iprovement in sewingtmach – Google Patents

エドワード・ハリソン・メイの描いたアイザック・メリット・シンガーの肖像画です。赤色のサテン風生地に黄色のパイピングを施したローブを着ています。

Edward Harrison May – Isaac Merrit Singer – Google Art Project

ウィルソンとウィーラー(ホイラー)

同時期に、アレン・ウィルソン氏は往復シャトルを開発しました。これはシンガー社のミシンとエリアス・ハウのミシンを改良したものでした。

しかし、ジョン・ブラッドショーも同様の装置を特許取得しており、訴訟を起こす恐れがありました。

そこで、ウィルソンはタックを変更して新しい方法を試すことにしました。ウィルソンは、シャトルの代わりに回転式フックを備えたミシンを製造する予定を立てました。結局、他の方法よりはるかに静かで滑らかにミシンを動かせました。

この時、ナサニエル・ウィーラーと提携し、ウィーラー・アンド・ウィルソン社(ホイラー・アンド・ウィルソン社)となりました。

ハウ対シンガー

1850年代をつうじて、ますます多くの会社が設立され、互いに訴訟を起こそうとしていました。

ハウは特許権を侵害されたとしてシンガーに訴訟を起こして勝ち、シンガー社や他の会社はハウに対してロイヤリティを支払うことになりました。

他方、アイザック・メリット・シンガーは独自の特許を1850年代に集中して取得していきました。すでに述べた特許(US10597A/1854年3月7日)以外にも。

シンガーの特許取得ラッシュ

たとえば、1851年8月12日にシンガーは改良ミシンのために特許番号「US8294A」を取得。この特許に続き、シンガーは独自デザインをどんどんフォローアップしていきます。

1854年5月に彼はチェーンステッチ・ミシン(環縫ミシン)の特許を取得。

1854年から1862年の間にシンガーはオリジナルのロックステッチ(本縫)用の往復シャトル機を改良。これによって11件もの特許を取得しました。

さらに、1867年までに本縫ミシンの振動シャトル機械の改良のために3件の特許を取得。

これらの特許は結局20件に達したといわれます。

パテント・プールによる寡占状態での均衡

その後、パテント・プール(特許権共有)を採用したアメリカのミシン会社は排他的な寡占状態へと進みます。

寡占に参入した会社もしなかった会社も、挙って熾烈な戦いを繰り広げたのは1970年代が最後でした。

この熾烈な戦いを鳥瞰した風刺画があります。この風刺画を説明した次の記事をご覧ください。

関連 ミシン・バトル : 1870年代アメリカのミシン開発競争

コメント 質問や感想をお寄せください

おすすめ生地ストア

UNISON TEX(楽天ショップ)

本社は織物の産地浜松にあります。

生地の種類が豊富で、特に綿生地がおすすめです。

妻が何回もリピートしたお気に入りの生地は50ボイルワッシャーです。

薄手の綿生地で、ミシンで縫いやすく、ブラウスやスカートの裏地などにおすすめです。

マダムコットン(楽天ショップ)

ベビー用のオーガニックコットンが多いお店です。

妻はよくベビー用のダブルガーゼでブラウスを作ります。

とてもお肌に優しくて着心地が良いです。

特にオーガニックのダブルガーゼがおすすめです。

スポンサーリンク
スポンサーリンク