ミシンと衣服の経済史 第4章:近代女性の共時性と衣服商品化の波

ミシンの歴史
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近代女性の共時性と衣服商品化の波:第1部 第4章

この記事では『ミシンと衣服の経済史』に関するご質問のうち、第1部第4章「近代女性の共時性と衣服商品化の波」についてお答えしています。

授業で質問して頂いた学生方々も含め、これまでご質問を寄せて頂いた方々に感謝いたします。

統一感を持たせるために文章の一部を変更し、簡潔な見出しをつけています。質問のはじめに♣、回答のはじめに♥をつけて区別します。

琉球(沖縄)の服装

♣108頁。琉球は、1872の琉球処分で日本に合併されていますが、1934年に琉装が見られないのは、そのことと関係があるのですか。

また、琉球も、日本と同様に西洋の外面的需要の為に、洋装は、輸入に頼っていたのですか。

♥1つ目、関係あります。日本は琉球の否定と日本のコピー化を推進。洋服は不詳です。

20世紀初頭の繊維産業の世界史的背景

♣95頁14行目。「この傾向には当時の繊維産業の世界史的背景が大きく起因しており、…」の世界史的背景とは何ですか。

♥直後辺りに触れています。産業革命の発生と影響によって、世界中で糸と布が余っていました。

だから女性の家事は織物から裁縫へと変わりました。学校教育でも20世紀の家庭科は裁縫が基本となります。

呉服店から百貨店に進んだ理由は?

♣呉服店から百貨店に進んだ理由がよくわかりません。

百貨店はデパートであるから商店などから進化するのではないかと思います。服を作るだけの呉服店では業務があまりにも変わってしまうから厳しいのでは?

♥呉服店は商店です。また呉服店は服を作るのではなく織物を仕入れて販売するのが本業です。

20世紀になり呉服だけでは経営ができないと判断した所が多いです(大丸、三越、高島屋など)。そこで色んな商品を扱うようになりました。ただし、呉服コーナーは残し、織物の大量生産が可能になった1910年代頃からとくに着物を量産して売りまくりました。代表的な量産ブランドは銘仙です。

1900年頃に日本の洋裁技術は欧米を凌駕した?

♣89頁4行目。この頃の日本の技術は本場の欧米を凌駕していたということですか?

♥全く凌駕していません。洋裁を学ぶために日本人が欧米に留学するケースが増えたということです。むしろ、その後、日本の洋裁業界は和服業界なみに蛸壺へとハマっていきます。

足袋の着用禁止令の出た理由

♣114頁。なぜ諸藩は農民に対して足袋などの使用禁止令を出したのですか?

♥不詳ですが農作業に足袋は不要と判断されたかと。また、武士も禁止令を出されています。これは戦国時代の武士に裸足が多かった遺風です。

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