この記事では「服飾手帖」から、上田安子の開いた上田安子服飾専門学校・上田安子服飾学院の広告を紹介し、学校・学院の略歴をまとめています。
上田安子
上田安子は1906年に日本の大阪府に生まれたファッション・デザイナーです。詳細はこちら。
略歴
大阪府立夕陽丘高等女学校を卒業後、伊藤衣服研究所に進学。
1941年に上田安子服飾研究所(現上田安子服飾専門学校)を開設。
1949年11月に大丸百貨店の顧問デザイナーに就任、1952年1月に服飾専門誌「服飾手帖」を創刊し発行人を務めました。
詳細はこちら。
服飾手帖
この雑誌はパリやニューヨークのデザイナー情報、パターン・メイキング方法、提携アパレル企業の広告が中心となっています。
次の画像のように、服飾手帖社が主催となって服飾講座も行なっていました。
案内文は次のとおりです。
ファッション産業もファッションサイクルの短縮化、多様化によって求心的な技術の重要性を問われていますが、この講座はファッション産業のあらゆるジャンルから見た経営の合理化、内外市場の再開発、商品企画室のあり方、デザイン、パターン、縫製技術、販売促進等の問題を現状と将来の方向性について追及します。講師はファッション界を代表するディレクター、プロフェッサーによって進められます。関係者の積極的な参加をお勧めいたします。「服飾手帖」上田安子発行人、服飾手帖社、1979年春号(同年4月発行)、通算327号、102頁
1953年に日本で初めてオートクチュール技術とディオールのコレクションを紹介しました。
この年、米国ニューヨークのブロードウェイにあったエセル・トラファーゲン・スクール・オブ・ファッション(Ethel Traphagen School of Fashion)に留学しました。
上田安子服飾学院
1957年には渡仏し、クリスチャン・ディオール社のアトリエで技術研究を行ないました。
1958年4月、上田安子服飾研究所を上田安子服飾学院に改称。
1960年代に上田はユベール・ド・ジバンシーやクリストバル・バレンシアガの下へも技術研究に向かい、その後、ファッション・ビジネスに力を注いでいきます。
次の画像は「服飾手帖」の裏表紙です。この雑誌にはジバンシーやディオールの商品が大丸百貨店提供の形でたくさん載せられています。
1965年4月には姉妹校の総合デザイナー学院を設立しました。
この学院は装飾デザイン、商業デザイン、室内デザインの産業系・商業系デザイナーを養成する学校です。
現在はビジュアルコミュニケーションデザイン学科、ビジュアルクリエーター学科などにも拡大しています。
上田安子服飾学院は1976年4月に学校教育法の一部改正を受けて上田安子服飾専門学校(専修学校)に昇格。
姉妹校の総合デザイナー学院も1980年4月に大阪総合デザイン専門学校に昇格しました。
1982年4月に学校法人上田学園を設置し理事長に就任。
1986年11月には上海で上田安子コレクションを発表。翌1987年4月に上田学園デザイン情報センターを設立。
女の勲章
山崎豊子の新聞小説とその映画(いずれも1961年)で大庭式子の名でモデル化されました。映画では京マチ子が大庭役を演じました。
関連リンク
- 上田安子服飾学院 – 上田安子が1941年に設立した専門学校の公式サイト。サイト内「上田安子物語」は当記事で参照。
- 大阪総合デザイン専門学校 – 上田安子が1965年に設立した専門学校の公式サイト。
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