ロートレアモンとミシン
ロートレアモン(Lautréamont)の詩にイギリス人の美少年を讃えた「解剖台のミシンと傘の偶然の出会いのように美しい」という文章があります。原文はこちら。
この文章は、フランスを拠点としたシュルレアリスム運動の芸術家たちに好まれ、とくに無関係な物同士の偶然の出会いに注目されました。
果たしてロートレアモンの言うこれら、解剖台、ミシン、傘(こうもり傘/蝙蝠傘)は「偶然の出会い」なのでしょうか。
後代に、解剖台、ミシン、傘は、ロートレアモンが偶然に広告を見た時に並んでいた店の販売物を並べただけだという指摘がなされています(ロートレアモン伯爵 – Wikipedia)。
Wikipediaの説明はウェブページを参照しており、そのページを脚注に記しています。しかし、それはフランス語サイトなので、ここでは深く立ち入られません。
この文章を細かく述べたページの一つ「ころんたのぼんやりひとりごと2001年9月」を紹介するにとどめます。
写真家マン・レイの写真による再現
「ロートレアモン伯爵 – Wikipedia」によると、この文章が書かれたのは1860年代末と思われます。
この文章をモチーフに、70年ほど後の1933年に写真家マン・レイ(Man Ray)が、次のような写真を撮影しました。
マン・レイはこの2つの写真作品に
Beau comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d’une machine à coudre et d’un parapluie (Beautiful as the unforeseen meeting of a sewing machine and an umbrella on a dissecting table)
http://www.manray-photo.com/catalog/product_info.php?products_id=1558&osCsid=e926e5a0bcafd1f00652613d4130cbc4
と、かなり長い題名を付けていますが、この題名はロートレアモンの文章です。
マン・レイはこの2作品のテーマをCompositions(組成)としましたが、それを美しいと感じたかは分かりません。
確かに、通説どおり、解剖台とミシンと傘の3つが同時に出会う(同じ場所に並べられている)のは偶然の出会いかもしれません。
しかし、解剖台とミシン、ミシンと傘の2者間の組み合わせに限っては、決して偶然の出会いではありませんし、3者の出会いも起こりうる時代に到達しています。
ロートレアモンとマン・レイの時代の違い
ミシンの特徴は薄い物か柔らかい物なら「何でも縫える」という点にあります(「ミシンの特徴3:袋口縫ミシンからみた広い用途」参照)。
すでに19世紀後半の段階で、ミシンは附属品を付けることによって縫える物を漸次的に広げてきました。
そして、解剖台とミシンの2者間関係は遅くとも20世紀中期には偶然の出会いでは無くなり、外科用(手術用)の自動吻合器や自動縫合器が開発され、実用化に向かいました。手術用ミシン、あるいは医療用ミシンは現実の物となったのです。
一例に「開胸開腹、鏡視下手術用にデザインされた自動縫合器」を挙げます(縫合器関連 | 製品カテゴリ | ステープラー関連 | 外科系手術関連 | 製品情報(製品カテゴリ) | 医療関係者の皆様へ | コヴィディエン)。
私自身は手術の解説を少し読んで鳥肌が立ち、寒気とも吐気とも分からんような感覚に見舞われてきました。
また、CiNii論文検索では佐藤博信「縫合器の変遷」(1990年)という興味深い論文がありますが、同サービスは2017年4月初頭に全面的にエラーが起き、記事を書いている4月15日現在でも普及していないので、この辺でミシンと傘との出会いに逃げます。
ミシンと傘の必然的な出会い
さて、ミシンと傘との出会いですが、解剖台とミシンの出会いよりも早く、19世紀末にはミシンで傘を作ることが実現していました。
日本の事例では、1891年に刊行され始めた『外国貿易概覧』で分かります。
これは税関の情報を集めた貿易に関する年刊報告書です。数字データの密集した『日本外国貿易年表』に言葉を添えるような意味合いで刊行が続けられたものです。
この『外国貿易概覧』がミシンに初めて言及したのは刊行翌年の1892年です。
「本品ハ俗ニ「ミシン」ト称シ,洋服及ビ洋傘等ノ工場ニ使用スルモノ」(1892年、500頁)と記され、当時の日本が輸入していたミシンの多くが洋服産業(仕立業)や洋傘産業に利用されていたことが分かります。
また、欧米諸国および欧州植民地では推して測るべし、19世紀末には解剖台とミシンは決して偶然出会うものでは無くなっていたことも分かります。
次の写真は、エリアス・ホウのミシン会社(ホウ・ミシン社)のミシンで、傘、ハット(帽子)、ベルトなどを作ります。
20世紀の間に、解剖台とミシン、ミシンと傘の2種類に関してはシュール・リアル(超現実)を逆流し、リアル(現実)となりました。
マン・レイは同時代的に進化するミシンについて、傘との関係を想像できなかったのでしょうか。
ロートレアモンが「解剖台のミシンと傘の偶然の出会いのように美しい」と歌った1860年代末頃には足踏式ミシンがアメリカやドイツで普及し始めていました。
彼の詩はミシン普及直後に作られました。マン・レイとの時代格差はかなり大きいものです。
自称シュール、実は平凡な写真家マン・レイ
マン・レイの1933年の「Compositions」という2つの写真作品はロートレアモンの詩を再現するためのものだったとしても、詩には手廻式ミシンか足踏式ミシンかは言及されていません。
マン・レイは、なぜ手廻式ミシンを想起したのでしょうか。
1930年代初頭のヨーロッパやアメリカでは家にも工場にも手廻式ミシン、足踏式ミシン、そして電動ミシンもよく見かけたはずです。三つの動力はすでに1880年代にアメリカで揃っていました。
この点に私はマン・レイの安直さを感じます。
当時は貴重品であったカメラ(撮影機)を入手して、単にミシンと傘を並べたというような、余りにも安易で平凡な作品です。
私からみればマン・レイは単なるリアリストに過ぎません。
結論:解剖台上のミシンと傘の偶然の出会いは美しくない
解剖台上のミシンと傘の偶然の出会いは美しいのか。
この美は写真では表現できないものだったというのが私見です。
そして、20世紀の100年間で、偶然の出会いでも何でもない段階に少しずつ進んできたとも感じます。
異化状態に物を配置することをフランス語でデペイズマンといいますが、この記事でお話したのは、写真家マン・レイがデペイズマンだと思った事柄が全く異化作用でも何でもなく日常のことだったというカラクリです。
残る課題というわけではありませんが、傘をさして病院へ出勤した外科医が傘を持ったまま手術室に向かい、解剖台の上に傘を置いたまま、自動吻合器や自動縫合器を用いて手術を行なえば、3点が外科医を起点として結びつきます。
冗談です…。