はじめに
不平等条約の改正に向けて、日本帝国は1884年に批准された工業所有権保護同盟条約(通称パリ条約)へ1899年に加盟しました。
加盟に先がけ、日本帝国政府は工業所有権法の整備を急ぎました。加盟後には特許と実用新案をはじめとする産業財産権(工業所有権)への意識が高まり、出願ブームが生じました。
本稿の課題は、それらミシン特許の出願ブームをはじめミシンの産業財産権の全体像を示すことです。
さしあたり「特許情報プラットフォーム(J-PlatPat)」を利用し、そこに収載のない若干の産業財産権は他文献で補足することで、戦前期ミシン関連の産業財産権出願の全容と傾向を把握しました。
「J-PlatPat」を使う方法は次のページを参照して下さい。
関連 戦前期ミシン関連産業財産権の調査方法:J-PlatPatの活用
産業財産権出願の各動向
「J-PlatPat」などを活用して分かったことをまとめます。
1890年から1948年までの約60年間で、ミシン関係の産業財産権総数は326件ありました。そのうち、出願年・取得年不詳は30件でした。
以下では、時系列を無視した動向には326件のデータを使います。また、時期的な推移には296件のデータを使います。
なお、戦前期産業財産権には、ミシン関係の意匠の出願はなく、実質的に特許・実用新案・商標登録のみでした。
産業財産権の種類による比較:特許か実用新案か
ミシンの産業財産権の総数326件の内訳は次のとおりです。
- 特許…225件
- 実用新案…97件
- 商標登録…4件
このうち、年不詳の30件(全て特許)と商標登録を除いた特許と、実用新案の出願件数(322件)を示したのが図1です。
よくいわれるように、実用新案は特許に比べて手続が簡略で審査期間は短いです。
そのため、工業化の初期段階では特許以上に実用新案が注目されることがあります。
図1をみると、このような傾向が明らかなのは1905年から12年の期間です。1911年を除いて毎年、実用新案件数が特許件数よりも多くなっています。次項で述べるように、ほぼ全ての実用新案が内国人のものでした。
1915年以降はほぼ全てが特許となり、終戦直後の1946年~1948年まで実用新案件数が特許件数を上回ることはありませんでした。
とはいえ、ミシンに関しては、実用新案の減少と特許への偏向は、工業化の進展をすぐに意味する訳ではありません。次項でみるように15年以降の特許には外国人のものも多くみられます。
内国人・外国人の出願数推移
次いで、内国人と外国人で区別した傾向を探りましょう。
1890年から1948年までの期間に取得されたミシン関係の産業財産権は、内国人で230件(産業財産権総数326件の70.6%)、外国人で96件(同29.4%)です。
特許225件のうち、内国人は134件、外国人は91件となります。また、実用新案97件のうち、内国人は96件、外国人は1件で、商標登録4件は全て外国人のものとなります。
これまで確認したように、実用新案はほぼ内国人であり、商標登録は全て外国人(米国人)でした。
ここで特許に注目して、時系列に内国人と外国人の出願趨勢を概観します。
図2をみてください。
図2に記した特許出願件数は特許総数225件から年不詳の30件を差し引いた195件です。
内国人の出願の高まりは1906年から1911年までの時期と、1927年から1932年までの時期に分かれます。1906年から1911年までは毎年2件から7件の特許が取得され、この時期にほぼ重なる1905年から1914年までの間には2件から13件の実用新案も取得されました。
その後、1913年からは外国人特許が増加します。また、従来の英国中心から米国中心へと特許権者の趨勢は変化していきます。その象徴的な年が1921年です。
1920年代前半は特許自体が少なく、同年代後半からは内国人特許が増加しました。米国・米国人が大きな比率を占めるのは1931年からです。
敵産処分の影響
敵産処分の影響から、1941年から外国人の出願・許可は皆無になります。
アジア太平洋戦争期に、産業財産権や企業資産などは「工業所有権戦時法」(1917年7月公布・同年9月施行)と「敵産管理法」(1941年12月22日公布・施行)によって管理されていました。産業財産権に対しては、後者よりも前者が優先されました。
参考 西村成弘「国際特許管理契約と日米開戦―GEの対日事業と敵産処分―」『関西大学商学論集』第54巻6号、2010年2月、49~51頁。
この工業所有権戦時法を根拠に、特許局は1941年12月8日(真珠湾攻撃日)から、敵国の特許発明や出願中特許(特許出願および実用新案登録出願)に対し、特許取消または専用免許の処分を行ないました。
外国人の国別動向
発明者、考案者、特許権者、実用新案権者のいずれかの立場で出願者住所が最も多く記されているのは米国(米国人)でした。年不詳込みで68件にのぼり、内国人134件の過半数を占めます。
この数値は、発明者または考案者の出願者住所よりも、特許権者または実用新案権者のそれを優先した場合のカウントです。出願者住所が2国にまたがる事例は4件で、いずれも米国に関係しています。米国圧倒の傾向に変わりはありません。
たとえば、特許番号118290「「ミシン」用敷物製作附属装置」(1935年5月24日出願、翌36年11月18日特許)の場合、発明者「ハインリツヒ、ベルコンス」の住所はラトヴィアで、特許権者「ザ、シンガー、マニユフアクチユアリング、コムパニー」(シンガー社)の住所が米国です。
特許権を2番目に多く取得したのは英国人で10件を数えます(うち年不詳4件)。以下、独国人は3件(うち年不詳1件)、カナダ人は2件(うち年不詳なし)と続き、米国の比重が抜きん出て高いことが明らかになります。
内国人の場合は特許権者に個人名が記されることが多いのですが、外国人とくに米国人の場合は、企業名が記されていることがほとんどです。
産業財産権の申請において組織的な制度が整っていたことがわかります。
米国・米国人の表記形式
米国人の取得した特許68件を特許権者別に延特許数で示したのが図3です。
シンガー社(The Singer Mfg. Co.)が最も多く44件も申請しています。
次いで
- ユナイティッド・シュー・マシーネリィ社(The United Shoe Machinery Co.)が10件
- リース・ボタンホール社(The Reece button hole Co.)が5件
を数えます。
戦前期の特殊ミシンで有名なユニオン・スペシャル社(Union Special Machine Co.)は3件に留まっています。
おわりに
この記事では、戦前期ミシンに関する産業財産権出願の動向をみました。
この結果、判明したことは次のとおりです。
- 1900年代から1910年代中ごろまで、手続が簡単で審査期間が短い実用新案として、内国人は発明を申請しました。
- 1910年代中ごろから、米国企業をはじめとする外国企業が排他的な特許を取得していきました。
戦前期に取得されたミシン特許や実用新案を時系列にリストアップしています。
併せてお読みください。
コメント 感想や質問をお寄せください♪