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ミシン国産化の遅延要因 ―特許出願の方向性

ミシン国産化の遅延要因:特許出願の方向性に関連して | 解題
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このページでは論文「ミシン国産化の遅延要因 ―特許出願の方向性」を解題しています。

背景 : アメリカとドイツのミシン製造業の展開

アメリカの動向

ミシン製造業は1850年代のアメリカを嚆矢とします。

勃興直後から開発者間や企業間の競争が激化しました。

業界は1855年に結ばれたパテント・プールを通じて寡占状態へ移行し、1880年代になると新規参入企業はほぼ無くなりました。

1850年代の米国ミシン製造業の展開で、有名各社は異なった様相を示しました。

  1. コルト兵器工場に酷似したホイラー・アンド・ウィルソン社
  2. 小火器製造技術を応用したブラウン・アンド・シャープ社(とウィルコックス&ギブス社)
  3. 欧州風に作業台で手作業によって行なうと認識したシンガー社

と…。

1850年代から70年代頃はミシン製造業の揺籃期にあたるため、正しい生産体制は存在しませんでした。

ドイツの動向

この間、シンガー社をはじめとする一部の企業は多国籍化しました。

ドイツでは1850・1860年代に米国製ミシンの分解・模倣からミシン製造業が勃興し、量産体制を整えながら国内市場を潤しました。1870年代には輸出化へ向かい、米国との国際競争下に入ります。

問題意識

19世紀後半はミシン輸入期にあり、20世紀転換期から足袋製造業者の一部が試作を開始し、自家工場で運転しました。1900年に日本進出を果たした米国シンガー社は中古品修理や部品再供給へ積極的に取り組まなかったため、00年代から20年代にかけて修理業と部品製造業が活発化しました。その裏面として本体製造に着手する企業の出現が遅れ、30年頃にようやく数社が創業することとなりました。

この約30年間にミシン本体の国産化は停滞していました。他方で、シンガー社は広範な販路拡大により、1900年の進出後、ドイツ製ミシンの輸入が大きく減退した10年代半ばから30年代前半まで日本市場を席巻しました。国産化停滞の30年間はほぼシンガー社の日本展開と重なります。

そこで、本稿は1930年前後に日本のミシン開発者やミシン製造会社が国産化を実現させるにいたった経緯を要約し、停滞の30年間を中心にミシン生産がどの程度まで進行していたかを特許・実用新案の明細書から検証します。その上で、米国シンガー社の影響、および通商条約を踏まえた米日関係・独日関係を検討します。

パリ条約および通商条約のもとで、20世紀前半における米国の対日進出のあり方と、同時期日本の国産化のあり方にはどのような隔たりがあったのでしょうか。また、米日双方における特許権獲得のあり方にどのような違いがあったのでしょうか。

この点を外国ミシンメーカーと日本のミシンメーカーとの関係、特に企業間関係を明細書から洗い出します。この作業によって外国メーカーが日本メーカーのミシン開発にどのような影響を与えたかが見えてきます。

『日本ミシン産業史』などで記されるように、ミシンは機械工業の中で軽視されていた機械の一種です。これに関わり、戦前期の日本内ミシン開発に関する文献も少ないのです。

課題と分析 : 日本のミシン製造業は勃興が遅かったか?

上述したようなドイツとアメリカのミシン製造業の影響下、中国と日本では開港期にミシン輸入が始まりました。

20世紀転換期にはミシン試作も開始。1910年代にかけて隣接部門の修理業と部品製造業が形成されました。中日でミシンの大量生産が実現したのは1920年代・1930年代のことで、米独に比して80年近い差があります。この時差の要因を本稿は分析しました。

具体的には、日本帝国内で申請・認可された内国人・外国人特許の動向を分析しました。また、参考までに、日本でのミシン製作、ミシン改良、ミシン輸入、外国企業動向を稿末の年表に掲げました。

1000字の論文概要(丁寧語に直したのでオーバーか)

本稿は日本帝国内で申請・認可されたミシン特許の動向から、ドイツや中国に比べミシン国産化の遅れた要因を検討しました。

その結果、「工業所有権の保護に関するパリ条約」の下で、米国特許権の存在が日本のミシン製造業の進展に大きな障壁となった点が分かりました。また、製品化されなかった特許の一連の流れ(波状縫ミシン)も明らかにしました。

米国とドイツ

世界のミシン製造業は1850年代の米国を嚆矢とし、勃興直後から開発者間や企業間の競争が激化しました。業界は1855年に結ばれた特許プールを通じて寡占状態へ移行し、1880年代になると新規参入企業はほぼ無くなりました。

この間、シンガー社をはじめとする一部の企業は多国籍化し販路を海外に求めはじめました。

ドイツでは、1850・60年代に米国製ミシンの分解・模倣からミシン製造業が勃興し、量産体制を整えながら国内市場を潤しました。そして70年代に輸出化へ向かい米国との国際競争関係に入りました。

中国と日本

この流れのもとで中国と日本では19世紀中期の開港とともにミシン輸入が開始され、20世紀転換期にはミシン試作も行なわれました。

その後、1910年代にかけて隣接部門の修理業と部品製造業が形成されました。

ここで、中国と日本のミシン国産化の開始状況を細かく見ると、10~20年ほどの時差があり、中国の方が国産化に早く着手できました。日本でミシンの大量生産が実現したのは1920年代末から30年代前半にかけてのことで、米独に比して80年近い差が開いています。

環縫ミシンと千鳥縫ミシンの特許規制

現代と同様、当時のミシンも概ね、家用と工場用の2種に大別されました。

環縫ミシン

ミシンの重要な役割の一つに布切れの縁を縫うという機能があります。その機能を担うものとして、工場用ミシンには専用の環縫ミシンが多用されました。

本稿で明らかにしたように、環縫ミシンの製造販売にはシンガー社特許(特許番号30956)が障壁となり、1932年まで国産化は禁じられました。

千鳥縫ミシン(ジグザグミシン)

他方、家用のミシンには縁を縫うものとして千鳥縫ミシンが利用されました。

千鳥縫ミシンは本縫ミシンに付属機能を併設することで利用できました。すなわち、本縫機能に千鳥縫機能が加えられ家用ミシンは多能的になりました。

この千鳥縫ミシンもシンガー社特許(特許番号26912)が障壁となり、1929年まで製造販売が禁止されました。

次の図は戦前の日本で出願・取得されたジグザグミシンの特許一覧です。太字にした特許「26912」が、実用的なジグザグミシンの開発を阻止したシンガー社の特許です。

文献番号発明名称出願日特許日発明者・特許権者出願者住所
特明13119装飾「ミシン」1907年9月12日1907年10月23日梁瀬角次郎日本
特明16191「ミシン」1909年3月12日1909年5月5日梁瀬角次郎日本
特明24875石川式千鳥緘機1913年2月27日1913年11月6日稻野由五郎(発明者)、石川康平(特許権者)ともに日本
特明26912縫機1913年11月13日1914年11月27日Albert H. De Voe(発明者)、The Singer Manufacturing Company(特許権者)ともに米国
特明100373縁縢縫機1929年4月22日1933年4月4日Christensen Norman V., Zeier Frederick F.(発明者)、Union Special Machine Company(特許権者)ともに米国
特明115070縁縢「ミシン」1935年1月29日1936年4月6日江本芳五郎〔特許権者(発明者)〕日本
特明128765縫機ニ装着ス可キ縁縢装置1936年12月1日1939年2月13日Tord Erik Daniel Bilde〔特許権者(発明者)〕(1935年12月3日優先権主張(瑞典国出願))スウェーデン

このような事態が背景となり、日本で本縫ミシンを開発したり模倣製作したりする場合、千鳥縫機能を併設しない本縫ミシンに限定されました。

結論

それゆえ、当時すでに公知公用の状態にあった本縫機能のみを有すシンガー社第15種相当品が、日本のミシン製造業者の間で繰り返し製造販売されていたのです。

出典 「ミシン国産化の遅延要因―特許出願の方向性に関連して―」『大阪経大論集』第67巻2号、211頁~233頁、2016年7月

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