ジャガーN757は祖母から母への願いが込められたミシン
この記事では「祖母から母への願いが込められたミシン」と題した、JAGUAR社の「N757」の思い出を紹介しています。
はじめに
ジャガーN757ミシンは30年ほど前に祖母が母に送った二代目のミシンです。
二代目、というのは、もともと祖母は嫁入り道具として母に小型の工業用ミシンを持たせたのですが、使わなかったために同時期に買った祖母の家庭用のミシンと交換したそうです。
そんな母のプロフィールは、1960年12月13日生まれの大阪府吹田市出身、現在は結婚して滋賀県の草津市に移住しています。
母のミシンとその思い出
ミシンのメーカー
このミシンのメーカーはジャガーです。
ミシンの機種と機種番号
機種名はN-757、機種番号は印字の仕様の都合で非常に見づらいのですが、13301897です。
ミシンの購入年
母もうろ覚えだったのですが、このミシン(ジャガーN757)は1990年頃に購入したものだそうです。
ミシンの性能
当時の母はマンション住まいだったために、収納しやすいコンパクトなサイズ感に惹かれたそうです。
また、このサイズ感は家庭で使うのに便利というだけでなく、厚手の生地も縫えるという機能も持ち合わせており、母も気に入っています。
しかし、刺繍機能はないなど機能が限定的であり、やや針が折れやすく糸が絡まりやすいという難点もあります。母は、高価なものではないので値段相応だと笑っていました。
ミシン技術の習得先
祖母が服を縫うことを仕事にしていたこともあり、幼いころからミシンと関わり深い生活をしていた母は、小学生時代は祖母がミシンを使う様子を見て何となくその使い方を知りました。
その後、豊中市立第六中学校に進学し、家庭科の実習の時間にミシンの実際の使い方を学びました。といっても授業内容は本格的なものではなく、波縫いや返し縫いなどの基本的な縫い方を習った程度で雑巾しか作らなかったそうです。
その後、祖母のすすめにより阪急京都線西院駅から徒歩10分の短期大学の家政科に進学した母は専門的に洋裁を習い始めました。
当時は大学に進学する女性は少ない時代だったので母がこの短期大学に進学したのは花嫁修業のためだと祖母に言われたからであり、自発的に進学したわけではありませんでした。
なぜ祖母がこんなにも母に洋裁を勧めたのかと言うと、実は花嫁修業のためだけでなく、ゆくゆくは自分の仕事を継いでほしいという気持ちがあったからだと思います。
当時の祖母は、問屋に仕事を依頼されたら型紙と生地を受け取り、服を縫い、それを服屋におろす仕事をしていました。
そのため、祖母は常に流行の服の型を持っており、この型紙と、問屋に依頼されたものとは違う生地を使って母のためにおしゃれな服を作ってくれたといいます。問屋から渡された生地は商品にしなければならないので母の服には使えなかったようです。
母は、そのなかでも三段切り替えのギャザースカートがお気に入りだったと懐かしそうに語ってくれました。
このように、昔は個人が服を作っていましたが、日本経済発展による工業化にのまれだんだんと仕事がなくなっていった上に、母は洋裁にさほど興味がなかったため祖母の仕事を継ぐことはありませんでした。
しかし、短期大学と同時に家の近所のおばあさんが開いている洋裁教室に通うよう祖母に言われていた母の洋裁の腕前は同級生たちよりも優秀だったそうです。
そんな母は、洋裁教室でボタンホールの作り方などを習い、短期大学ではドレッシーなレーヨンのブラウスやサテンのスカート、Aラインワンピース、テーラードスーツなどを縫い、出来上がった服を着て趣味だった宝塚歌劇団の公演を見に行っていたそうです。
望んで洋裁を習っていたわけではないにしても、なんだかんだと楽しみ、その技術は日常で活躍していたことがうかがえました。ちなみに、レーヨンの生地はほかの生地よりも縫うのが難しかったそうです。
母と私のミシンの思い出
母のミシンの使い道
短期大学卒業後、母はミシンから離れていたそうですが、子供ができてからはまたミシンが活躍しだしたといいます。その際に使われたのが写真のミシンです。
例えば、波縫いや返し縫いで、幼稚園で使うための手提げ袋やシューズ入れを私や姉のために縫ってくれました。
サンリオキャラクターが好きだった姉にはマイメロディーの生地を使って、ポケモンが好きだった私にはピカチュウの生地を使って作ってくれました。私はもう覚えていないのですが、私からピカチュウの生地で作って欲しいと頼んだらしいです。
ミシンによる私と母との思い出
また、将来の夢がころころと変わっていた中学生時代の私には、服をデザインしたり実際に作るような仕事に就きたいと思った時期がありました。そして、母と一緒に本屋に行き、型紙付きの洋裁本を買ってもらい、母に教わりながら数着のスカートを作りました。
とくに覚えているのが花柄の台形のスカートと、中央からギャザーを寄せラインを膨らませ、裾にはさらにギャザーを入れてボリュームを出した水色のスカートです。どちらも当時の流行のデザインで、服屋で簡単に手に入ったのですが、私は自分で作りたかったのです。
台形のスカートは簡単に作れてもギャザーをふんだんに使ったスカートは難しく、なかなか完成しませんでしたが、当時の私は自分で自分の思うようなデザインの服を作れることが嬉しくて、放課後に何時間もこのミシンと向き合っていました。
完成が近づくと夢中になって止まらなくなり、徹夜で作り、翌朝4時にやっと完成した時の喜びはいまだに覚えています。このとき母も付き合ってくれていたのですが、仕事もあるのによく付き合ってくれたものだと思います。
母が作ったものにしろ、私が作ったものにしろ、家族や自分のために作ったものなのでもちろん無償です。しかし、今でもあのころのような熱意をもって母に洋裁を教わっていれば有償で仕事を請け負えるレベルになっていたかもしれないと思うと少し惜しい気もします。
母のミシンの今
結婚後しばらくミシンを使わなかった母は、子供が幼稚園に上がる際にミシンを使いだしました。
上記の通り私と姉の手提げ袋やシューズ入れを作ってくれたのですが、私と姉が小学校に進学してからはまた使う機会がなくなったそうです。
そして、中学生の私が洋裁にはまったのをきっかけに、私に洋裁を教えるためにミシンを使いだしましたが、私が洋裁に飽きてからは使う機会はなくなり今に至ります。
使わなくなった一番の原因は母が正社員として働きだして時間があまり無くなったことですが、今では老眼で手元がやや見えにくいからという理由も加わりました。
そもそも、母は洋裁を習いたくて習っていたのではないため、必要に迫られなければ使わなくなるのは自然なことかもしれません。
母のミシンへの思いれ
母にとってこのミシンは“亡き母(私からみて祖母)が買ってくれたもの”であり、祖母の「娘(私の母)にも洋裁が上手になって欲しい」「娘に自分と同じ道に進んでほしかった」という気持ちが込められているであろうミシンですから、使わなくなっても捨てられないそうです。
今回このインタビューを受け、母の胸には祖母のその気持ちにこたえられなかったという虚しさと、洋裁に興味を持てなかった申し訳なさがこみあげてきたと言っていました。
しかし、子供が小さい時に活用できたことと、私が中学生の頃に数着のスカートを縫い、思い出を作れたことでこのミシンは十分役割を果たしてくれているようにも思うと語ってくれました。
そして、昔の思い出話をしているうちに亡き祖母がミシンを使っていた姿を思い出し、祖母のミシンにかけていた強い思いを実感して、久々に使いたくなったそうです。
インタビューの最後に、母からこのミシンは祖母の形見のようなものだから娘にも受け継いでほしいと言われたので、将来は私がこのミシンを受け継ぎ、母が私にしてくれたのと同じように子供に何か縫ってあげたいと思いました。
また、私にとっても子供のころ母と一緒にミシンでの洋服作りに熱中したことは大切な思い出です。私たち家族にとってミシンとは、ただの道具ではなく、家族と思い出を共有でき、家族とのつながりを感じさせてくれる特別なものです。
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