ミシンのエピソード「ジャガーCD-2101をつうじた祖母のミシンの思い出」をご紹介しています。
インタビュアーは私の母方の祖母です。ミシンはジャガー社のCD-2101です。
祖母の生い立ちから決意
神奈川県横浜市磯子区、父は教職につき、母は専業主婦の三女として生まれました。
その後太平洋戦争になり母方の実家のある静岡県磐田郡豊田町池田というところに疎開しました。
天竜川を渡ると浜松に基地があり爆弾が池田地区にたくさん落ち父は破片が背中に二か所刺さり亡くなってしまいました。
戦時中衣類もない時代に母の絹の着物を綿の着物で子どもたちのモンペ、ブルマ、親のセーターをほどいて洗い干して子ども物に編み直し試行錯誤して大変な生活でした。
その頃の母の姿を見て私もこうなりたいと強く思いました。
祖母の学生生活
その後東京都杉並区和田町に引っ越して来て、中学校を卒業して東京文化服装学院(今の専門学校)に入学しました。
通学は鍋屋横町(当時は都電路面電車)から新宿からJRで渋谷、そこからは徒歩での通学でした。
1クラス30名の中、女子26名、男子4名(デザイン科)1日の授業は3分の一が裁縫の時間でした。残りの時間は今の授業と同じように一般の教養でした。
裁縫の授業は白いサラシの布に運針(針の使い方、ぐし縫い)1ミリ間隔で30cm、次は返し針で30cm、マツリグケ(布端の始末三つ折りにした布の折山の裏から針を出して進む技法)その作業が終わるとミシンの使い方について学びます。
ミシンのある教室は20台もあり教室の広さもとても大きい部屋でした。
はじめはボビンに糸をまく方法からミシンの糸の通し方、その他は取り扱い説明後、自分たちでやってみていました。今度はサラシでハンカチを作りました。
東京文化服装学院の作ったもの
作ったものも、今はいろんなハンカチなど売っていますが当時はそのようなものがなかったので自分たちで桜の花の刺繍をつけたり工夫をしていました。
学校で作ったものはエプロン、割烹着、ブラウス、ギャザースカート、タイトスカート、フレヤースカート、男性ものではシャツ、ワイシャツ、ズボン、そして二年生になるとベスト、ワンピース、ジャケット、ジャンパースカートを作りました。
学生時代の祖母の様子
作業がとても楽しく、完成していく作品が嬉しくて学校以外でもいろいろな縫物や縫いの宿題をどんどん進んでいくうちに、二年生の時にはとてもいい成績をとることができました。
その後も家でも自分で考えた服を少しずつ試行錯誤しながら作業していき、母にもワンピースを作ることができました。二年生の頃はとても楽しく過ごしていました。
三年生になってからはデザイン科(男子)もワンピースやスーツ、ドレスなど型紙も採寸(バスト、ウエスト、ヒップをメジャーではかる)も仮縫いもできるようになりました。友達の洋服やハンカチなども少しずつ作るようになってきました。
年に1回、何点でも出展できる展示発表会がありました。
卒業展示発表会でも何点でも出展できたのですがスーツとドレスに絞って出展することに決めました。一生懸命作りました。
家族や親せき、友達がたくさん見に来てくれました。今思えば金賞と銀賞とか何ひとつ賞はありませんでしたが、達成感や自分の作りたい作品を見てもらえることに喜びを感じました。
学生生活からその後
卒業展示発表会で出展した出品物をみて気に入って下さった人がいて、私に合わせて作ってくださいと頼まれ(今でいうイージーオーダー)作ったこともありました。
卒業後は日本板硝子に就職試験室という課に所属し板硝子を乗用車のフロントガラス、リヤーガラス、窓ガラス、あと当時のテレビの画面のフラットの時代に作っていました。
布地も世間で販売しはじめたので、会社から帰り近所の人に洋服を縫ってあげたり、赤ちゃんのベビー服や小学校の服などいろいろ縫いました。
自分のミシンと自分の着るもの
当時、私は月掛け(マンスリー・ローン)でミシンを購入しました。
箱型で取り出す前はテーブルのようでドアを開け上を取り出すと立派な足踏式ミシンでした。
社会人入社後のある日、新商品ポータブルミシンが発売することが決まり即購入しました。
それからまた張り切って他人に服を縫うことに専念しました。
親友の誘いで自由が丘の社交ダンス教室に行かないかと誘われて、ドレスを自分のと親友のを作りいそしんで二人で社交ダンス教室に行きやってみることに決めました。
ところがレッスンのことは分からなっかたので、先生に着るものを聞くとブラウスとロングスカートとパンプスと言われ、違ったことにがっかりしましたが、1年後クリスマスのダンスパーティーではドレスを着ることができたので、親友と喫茶店でお菓子と紅茶を食べながら楽しかったひと時を語り合いました。
結婚後
結婚式と新婚旅行
結婚することになり結婚式では白無垢の上着下着ともに白一色の花嫁衣装、お色直しでは振袖、その後は自分で作った自作のドレスを着ました。
当時は自作のドレスを着る人があまりいなかったので自分自身の心の中は自慢げになり楽しかった思い出になりました。
新婚旅行のときもスーツ、ワンピースと自作のものを着ていきました。そして新居の神奈川県横浜市に引っ越し通勤を二人でするようにしました。
妊娠中のミシンの活躍
結婚してから1年6か月後妊娠していました。
出産までの間ミシンが大活躍した時、サラシを60cmの輪に縫い60~80枚を作り、ベビー服、ロンパス、ブラウス、エプロンを自分で作り買うものはありませんでした。
ですが、ミシンがコンピューター高機能付きになり取り扱いも難しくなってきましたが三代目のミシンを購入したときの取り扱い説明書をよんで何回も何回も見ているうちに少しずつできるようになり、それが楽しくなっていきました。
妊娠中は時代的なミシンの活躍と自分で作ったものが子供に来てもらえる楽しみで私の中では大活躍でした。
祖母と母とのミシン(インタビュアー母)
学校の家庭科の授業でミシンを使って服を縫う授業があって、授業内に完成しなかったら宿題という形で家に持ち帰りということになっていました。
なので、授業中は本当に少しだけやって後はお母さん(祖母)にやってもらうことにしました。
次の家庭科の授業でその縫った服の箇所に成績がついて自分でやった箇所はABC中のCでお母さんがやったところはAがついてしまい、先生に「何でここだけ下手くそなんだ?」と言われ恥ずかしかった思い出があります。
現在のミシン
今のミシンはポイントがたまって有効期限がきれてしまうというときにミシンがあったのでポイントで購入しました。まだ買って三か月くらいです。
今年に入り年齢が重なりミシンが重くなってきたり、針に糸を通すのが難しくなってきたりと大変です。
ですがコロナウイルスの対策のため手作りでマスクを作り始めました。今年になってまたミシンが大活躍しています。
祖母のミシンに対する思い
私の母が縫物をする姿や、自分が子供や他の人に物を作ってあげることが私がミシンに触れるきっかけで、人生において大切なものです。
今は電気屋を経営していて電気製品もちろんミシンとも関わりあっています。
感想
私はスポーツをやっていますが縫ったものに対して評価がつかない、金賞も銀賞もない世界が私にとって未知の世界でした。
専門学校に通うことに意味はあるのかと思いましたが、勝負のつかない世界の素晴らしさも知り自分のためではなく他人のために何かをできる、ミシンとはそういうものなのだと感じました。
私は小さなころから制服のズボンや体操着など破れたところを縫ってもらったりして、今回のインタビューで、なんで縫物ができるのか知れて本当によかったです。
正直、年も取ってきて昔のように動けなくなってきました。
私も高校性の頃から下宿をしているため7年間もしっかりと話していませんでした。この機会に祖母と話せたことが何よりの収穫だと思っています。
この話をきっかけに自分も誰かのために何かをしたりミシンを使ってみたりしたいと思いました。
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