シンガー社のジグザグミシン対応とその失敗
第二次世界大戦後のブーム期、変化するビジネス環境のもとで、シンガー社はミシン市場のシェアを下げました。
この決定的な原因は、ジグザグミシンを家庭用として販売しないという同社の古い方針にありました。
ジグザグミシンには比較的複雑な操作が必要なので、低価格でも米国の家事労働者たちはジグザグミシンに惹かれないはずだと、シンガー社は結論づけていたのです。
そんな事情があって、ヨーロッパのジグザグミシン製造業者たちは、アメリカからの発注に追いつけませんでした。
また、ジグザグミシンが提供する新規性と有用性にくわえ、ヨーロッパ再建援助を描いたマーシャルプランが後押しして、ヨーロッパの生産者たちは関税引き下げによって救われました。
ジグザグミシンの特徴
多くのジグザグミシンは、その刺繍能力から生み出されていきました。
1905年以来、ジグザグミシンは工場用に使われてきました。ミシン針を横方向と縦方向の両方へ動かし、ジグザグ・パターンを実現できたからです。
また、滑らかな円弧や曲線も直線ステッチ同様に可能でした。
ジグザグミシンによって、ボタン穴の自動作成、ボタン付け、独創的デザインの制作が可能になりました。
ですから、家庭での縫製能力をも大幅に向上させました。
ジグザグミシンの相対的なユーザー・フレンドリーによって、非熟練の家庭縫製者たちも、複雑な模様と巧妙なデザインをミシンで刺繍することができました。
家庭用ジグザグミシンの販売競争
家内ユーザーたちに適した最初のジグザグミシンは、1943年にスイス拠点の企業「ゲガウフ」が発展させました。
同社のミシンはアームが自由に振れたので、行きつ戻りつできました。
欧州メーカーの台頭と沈滞
アメリカがジグザグミシンを初めて輸入したのは1947年のことです。イタリアのパヴィアから出荷されたネッキ社製品でした。
その後すぐに、スイスの会社「エルナ」が続きました。エルナのミシンは緑色のノベルティで、ボタン、ボタンホール、装飾ステッチを縫うことができる単一のジグザグ・アタッチメントを搭載していました。
1948年になると、アドラー社、アンカー社、パフ社などのドイツ・メーカーが続きました。1880年にミシンの製造を開始したスウェーデンのハスクバーナ社製バイキング・ミシンも販売競争に参入しました。
このように多くの外国メーカーがアメリカ市場でジグザグミシンを安価に売っていきました。
この背景には、アメリカの貿易緩和や、マッカーサーの対日政策などがありました。日本のミシンメーカーも1950年代前半にアメリカ市場へ参入していきます。
日本メーカーの台頭と沈滞
1953年に三伸はジグザグミシンの販売をスタート。次いで1954年にブラザーも。ブラザーは同年から自動ジグザグミシンを次々に製造販売していきます。
その結果、北米市場や南米市場をはじめ、欧州勢力の強かった地域のジグザグミシンに食い込んでいきました。
1970年代中ごろまで日本メーカーのジグザグミシンの輸出は伸びましたが、製造コスト・賃金上昇や円高の影響を受けて価格競争力を落とします。1970年代末にコンピュータ制御ミシンなど高度化されたミシンの輸出を試みますが、1980年代には家庭用ミシン全般で売れ行きがダウンしました。
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