この記事では「祖母の思い出が溢れるミシン」と題した、ヒョプジン社製ミシンの思い出を紹介しています。
ミシン所有者とあなたの関係
添付した写真のミシンの所有者は、私の祖母です。
祖母は1941年生まれで、私の出身国である韓国の公州市という田舎に住んでいました。
そのあと、20年ぐらい前に首都のソウルに来て一緒に住むようになりました。
いま持っているミシンは約53年間使っているものです。
祖母の思い出が溢れるミシン:ヒョプジン(HYUPJIN)
ミシンのメーカー
HYUPJIN(ヒョプジン)という会社のミシンです。
韓国の会社みたいですが、今は韓国のブラウザで検索しても情報が見つけられないです。
そのため、もう倒産した会社だと推測されます。
ミシンの機種
ミシンの本体にはとくに書いていなかったので、不明です。
ミシンの購入年
1966年頃
ミシンの性能
このヒョプジン・ミシンは50~60年ぐらい前に販売されていた製品で、新型のミシンのように色々な縫い模様を設定することはできなく、直線縫だけできます。
しかし、直線縫いだけでも色々なものを作ることができるから、祖母には直線縫しかできないことはあまり問題になりませんでした。
また、縫い目の長さを調節して細かく縫ったり粗く縫ったりすることもできます。さらに、鉄で作られているため、プラスチック製ミシンより耐久性がいいという長所もあります。
もともとは机のような形で足踏み台があって、それを使って稼働させる足踏式のミシンでした。足踏み台を両足で同時に前後に踏むと、ミシンのプーリーが回転するようになってミシンが動きはじめるみたいです。
しかし、ソウルに来てからは大きなミシンの保管が難しくなって、足踏み台をなくして保管もしやすいし、床に座っていても使えるように改造しました。
また、足踏み台の代わりに小さいペダルを連結し、プラグを差し込んで片足や膝などでペダルを踏み続けていると、ミシンに付けたモーターが回るようになってミシンが働きはじめる電動式に改造しました。
ミシン技術の習得先
祖母が18歳だったとき、家で祖母の祖母に教えてもらったみたいです。
足踏み台を踏んでミシンを働かす方法を習った後にはすぐ一人でも使えるようになったそうです。
ミシンでつくったもの
祖母がこのヒョプジン・ミシンを使いはじめた当時、韓国の田舎では家で服を作って着ることが一般的だったそうです。
祖母も服を作ることを主目的として使いましたが、他にも色々なものを作ったり直したりしていたと言いました。
具体的には次のようです。
父の服
父がまだ子供だったとき、祖母は家でTシャツやズボンなどを作って着せました。
主に綿で服を作りましたが、夏には涼しく暮らせるように苧麻でチョゴリ(韓国の伝統的な上着)やズボンを作って着せました。
他にも父の破れ衣を直すときにも使っていました。
祖母のズボン
当時、祖母は田舎で農作業をしていましたが、そのときに着る動きやすいズボンがほしくて、自分で作って着ました。
腰と足首のところにゴムバンドを入れた、身幅の広いズボンを作ったそうです。
エプロン
もう着ないようになった服を切って、家事をするときにかけるエプロンも作りました。
エプロンの前面には布を重ね合わせて小さいポケットも作りました。
チョガッポ
昔の韓国ではパッチワークのように布切れをつなぎ合わせて大きな風呂敷を作っていました。
この風呂敷のことを韓国語で「チョガッポ」といいます。祖母も時々服を作った後、余りの布切れでチョガッポを作くりました。出来上がったチョガッポには、後で刺繡で大きな鶴や花などを入れて飾りました。
このチョガッポは布団や家具などにかけて、ほこりがたまらないようにする目的として使われました。現在も家に2枚ほど残っていますが、ピアノの上に埃がたまらないように掛けています。
枕と布団
枕と布団のカバーも祖母が直接作って、そのなかに綿を入れて家で使用していました。
他にも、隣人の服、小袋などを作ったり直したりしていましたが、細かいことはよく思い出さないそうです。
祖母はこのようにミシンで色々なものを集中して作り出すことがとても楽しかったと言いました。
もともと基本的な直線縫しかできないミシンだったため、祖母が作ったものも全て直線縫いだけが使われました。
また、ミシンで有償労働をしたことはなく、家族や隣人のための無償労働が全部でした。
ミシンの現在
最近は服を買って着ることが一般になり、家で直接服を作ることはほとんどなくなりました。
そのため、祖母がミシンを使う頻度も前よりはかなり下がりましたが、今でも月に1・2回以上は使っています。
ミシンを使うと、やはり手縫いよりもっと速く、綺麗に縫うことができるから、今でもミシンを使っているそうです。
今は主に家族の服を直すときや着なくなった服で何かを作るときなどにミシンを使っています。
例えば、私が高校生だったとき、制服のスカートの丈をもう少し長くしたくて祖母に修繕してもらったときにもミシンを使いました。
また、私の姉の頼みで、祖母がミシンを使って古いジーンズで半ズボンとデニムスカートを作ってくれたこともあります。
さらに、私がもう着なくなったワンピースを祖母がミシンで修繕して自分の着るロングスカートを作ったこともあります。
これについて祖母は、やはり新しい服を買おうとしたらお金がかかるが、もう着なくなった服を使って新しい服を作るとお金もかからないし、自分の好みに合うものが作れるからいい、と言いました。
ミシンへの思い入れ
このミシンには、私の祖父に対する祖母の思い出が詰まっています。
1970~80年代の韓国ではミシンが多く普及していて、家ごとにミシンを少なくとも1台は持っていました。
しかし、それより少し前の、祖母が所帯をもったばかりの1960年代の韓国の田舎では、ミシンを求めることが難しかったです。
また、家の経済も高いミシンを自由に買えるほどいいとは言えない水準でした。そのため、祖母は縫いものは好きでしたが、ミシンを買うことは夢にも考えたことがなかったそうです。
このような祖母に祖父は、祖母の好きな縫いものがたくさんできるようにミシンを町中で掛買いしてプレゼントしました。
子供を産んだ後、休む間もなく家事と仕事をして疲れていた祖母は、祖父からミシンをもらって、好きなこともできるし、縫いものも前より速くなったので祖父にありがたかったそうです。
そのあと、祖母は家で服、布団、小袋などの色々なものが作れるようになって、とても嬉しかったと言いました。
このような思い出が詰まっていて、祖母は約25年前に祖父が亡くなった後にも、ミシンを見ていると祖父を思い出すそうです。
終わりに
私は小さいときから祖母のミシンを見てきました。
大型のミシンのペダルを踏むと、うるさい音を出しながら布が新しいものに変わっていく姿を見ることが不思議で好きでした。それでミシンの音が聞こえると、すぐ姉と弟と一緒に祖母のそばに座って見物していました。
中学生になってからは、私も学校でミシンを習うようになりました。そのとき、家で使っているミシンとは違う新型のミシンを初めて見ました。新型のミシンは小さいし便利な機能も多く、私も古いミシンではなく、新型のミシンが欲しいと思っていました。
しかし、今回、祖母とミシンについて話をして、古いミシンに対する祖母の大切な思い出をたくさん聞けて、私も古いミシンを今まで以上に大切に思えるようになりました。
私も韓国に戻ったら、祖母が昔そうだったように祖母にミシンを教えてもらって、祖母とミシンに対する思い出を作りたいと思いました。
ふつう「音楽は郷愁をそそる」といいます。
音楽を聞きながら、我々はその曲をはじめて聞いたときの気分、よく聞いていたときの状況、一緒に聞いていた人などを思い出します。
これは物も同じだと思います。
祖母のミシンのように、自分の思い出が詰まったものを見ていると、楽しかったときが思い出したり、懐かしい誰かに会いたくなったりします。
また、その思い出の上に新しい思い出を作っていくこともできます。
このような意味で、ミシンは単純に縫いものをしてくれる機械以上の役割をしていると思います。
人にミシンを教えたり、ミシンで何かを作ってあげたりする行為を通して、人と人がつながるし、たくさんの思い出が作れると思います。
もし、祖母のミシンがもう働けないようになったら、ミシンは捨てられてしまうかもしれないです。
しかし、それはミシンに詰まっている祖母の、また家族の思い出まで捨てることではないです。
そのため、祖母と家族は今後もミシンを思い出しながら、一緒に楽しめると思います。
にゃんからの感想
ミシンの音を音楽やリズムに関係づけた話の展開に感動しました。
ミシンのリズムが音楽のように思い出となり、子供の教育に役立つ店を次の記事に書いています。あわせてご覧ください。
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