
同業者たちは競争を激しくさせながら、独自の工場制度を確立していきます。


生産体制は非常に未熟だったことがデーヴィッド・A・ハウンシェルの研究によって明らかにされています。

以下にハウンシェル著書の第2章を要約して3社の特徴を紹介します。
ホイーラー・アンド・ウィルソン社(Wheeler & Wilson)
ホイーラー・アンド・ウィルソン社の工場はコルト兵器工場に酷似した精度の高いミシン製造工場を建てました。
ハウンシェルはその状況を93頁で次のように伝えます。
主要な可動部分が最初に落とし鋳造され、その後、機械加工がなされていた。この機械加工作業では、多数の専用工作機械が工程順に稼働していた。原型モデルを使用するゲージ・システムと合理的な治具・取付具システムとにより、部品の均一性が保たれており(後略)
製造には多数の専用工作機械が工程順に動いていました。
原型モデルを用意し、治具・取付具も整備していたことがわかります。次のカードはホイーラー・アンド・ウィルソン社のミシン製造工場の様子です。かなり洗練された印象。
ウィルコックス・アンド・ギブス社(Willcox & Gibbs)
ウィルコックス・アンド・ギブス社はブラウン・アンド・シャープ社(Brown & Sharpe)にミシン部品の多くを委託生産していました。
両社の関係は次のカード(Willcox and Gibbs Sewing Machine Company History)が詳しく述べています。
ブラウン・アンド・シャープ社は小火器製造技術を応用しました。
ハウンシェルはその状況を99頁で次のように伝えます。
同社が多数の専用工作機械が工程順に動かし、原型モデルを用意し、治具・取付具も整備していた点はホイーラー・アンド・ウィルソン社と同じです。
しかし、同社は1点だけ独特なこだわりをみせました。ミシンの原型モデルを設計したのです。
ホイーラー・アンド・ウィルソン社は原型モデルを作りませんでしたが、ブラウン・アンド・シャープ社はそれまでも作った訳です。
次のカードは同社のミシン製造工場の様子です。
上のカードで紹介されているホイーラー・アンド・ウィルソン社同様、こちらも、かなり洗練された印象。
シンガー社(Singer)
原型モデルの考え方に2社の違いがありますが、当時の最新鋭の設備を用意していた点で2社はシンガー社とかなり違っていました。
なんとシンガー社はヨーロッパ風に作業台を使って手作業で製造すると考えていたのです。そして、使うものは汎用機械であって専用機械ではありませんでした。
ハウンシェルはその状況を125頁・143頁で次のように伝えます。
1873年にニュージャージー州エリザベスポートに新工場を移転した時に、専用工具・機械による互換性部品の製造というアメリカン・システムをシンガー社は全面的に採用した
1881年になっても、ある程度の仕上げ調整作業やヤスリ掛けがミシンの組立にはまだ必要であった
1873年になってシンガー社は専用工具・専用機械を使って互換性部品を製造する段階に達します。
しかし、市民戦争で巨利を得た2社は1860年代にその段階あったでしょう。10年前後はシンガー社が遅れていると考えられます。
そして、2つ目の引用。シンガー社は1881年でも仕上げ調整ややすりがけをしていたとは…。
次の写真とカードは同社のミシン製造工場の様子です。作業を終えたミシンをどこに持って行けばいいのか分かりにくい…。

シンガーミシン製造工場、ニューヨーク市中央通り、1853年8月。 via The First Singer Sewing Machine Factory
ハウンシェルはこの著書の最後の方でシンガー社のネジが取れやすいことをアンティーク・ミシンの比較から導出しています。
それでもシンガー社は1867年から米国1位の生産高を誇るようになりました。
おわりに
当時、ミシン製造業は揺籃期にありました。
ですから、何が正しい製造方法かを誰もが知りませんでした。
工程順に作業を進める工場や専用の道具・機械を用意すれば、確かにすばらしい製品はできるかもしれませんが、必ずしも売れ行きの良い商品をつくるわけではありません。
出典 デーヴィッド・A・ハウンシェル『アメリカン・システムから大量生産へ―1800-1932―』和田一夫・金井光太朗・藤原道夫訳、名古屋大学出版会、1998年、第2章。
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