ミシンのエピソード「ジャノメミシンニュープリシアex956にいたる祖母の技術の秘密」をご紹介しています。
洋裁との出会い
1960年代、私が20代になり仕事に就き始めた頃、何か自分のためになる技術を習ってみたいと考えました。
家でもできて、将来まで必ず役に立つものを学びたいと考えたときに、自分の家に洋服が少ないことに気が付きました。
そこで着ることのできる服を一枚ずつ増やしていくために、洋裁を習ってみようと決めたのです。
そこで購入したのが足踏み式のシンガーミシンでした。
このような経緯で洋裁を習い始めましたが、やはり服を作るという目的への到達は難しいものでした。
ミシンを購入するにあたり
仕事に就き始めたばかりということもあり、給料が少ないので少しずつ分割しながら中古のミシンを買いました。
やはり洋裁を習うのですから、良いミシンを買いたいという気持ちがその時は強かったのだと思います。
しかし、張り切って買ってみたはいいものの、本当に自分が着ることのできるような服を作ることができるのか、また仕事がかなり忙しくなった時に洋裁と仕事の両立をすることができるのか、という不安を少なからず持っていたことを今でもよく覚えています。
繰り返す失敗、そして完成
ミシンを購入してからは先ず基礎縫いを始めました。
しかしこれがとても難しく種類が多いのでなかなか覚えることができませんでした。
何度も何度も失敗を繰り返し、頭でも体でも様々な種類の基礎縫いを覚えていくうちにだんだんとできるようになっていきました。
その充実感を今では懐かしく感じます。
結婚後には、子供の洋服など簡単なものは採寸し、型紙を取り、それを布にあてて裁断したのち、縫うことまでできるようになりました。
この一連の作業をすべてやり切り完成した時には、洋裁を習ってよかったという喜びを強く感じたものです。
今でも、孫の服の手直しなど簡単なことではありますがミシンを使って裁縫をやっています。
どのようにして知識を得たのか
ミシンの技術を学ぶためには学校に入ることが一番の近道だと考え、様々な学校を探しました。
親や友達とも相談し、一番家にも近くて通いやすい学校を選び、仕事が終わった後から行くことのできる夜間部に入学しました。
この学校で月曜日、水曜日、金曜日と週に3回、一年半ほど洋裁を習ったのですが、その体験は大変でしたがとても楽しくあっという間に過ぎていきました。
仕事の残業時には学校に出席することができなかったので、たまっていた洋裁の宿題を、うなりながら基礎から地道にこなしていったことは、今でもいい思い出です。
そこは広島市の広島高等洋裁女学院(現・広島文化学園短期大学)という名前の学校で、当時の校長先生、技術を教えてくださった先生方には深い感謝の気持ちを感じています。
現在の洋裁学校
私が約60年前に通った当時の学校を調べてみると、当時の校長先生もお亡くなりになり、その学校も現在では縮小され吸収合併されたという話でした。
その学校は広島にあり、当時では有名な洋裁学校でしたが時代の流れには逆らえないということを実感しました。
しかし、先生方から教えていただいた洋裁の技術は今でも活用していますし、今でもなくてはならない技術だと私自身感じています。
先生方から教わった技術をこれからも充分に生かし、楽しく付き合っていきたいと思います。
現在のミシン
今では足もうまく使えなくなってきたために、60代の頃に買ったジャノメミシンの卓上を使用しています。
使用しているといっても、このミシンを出してくるのは1年に数回しかありません。
しかし、若いころに週3日ほど洋裁学校に通い、得た技術のおかげで、今の老後の生活に少しでも楽しさという潤いをもたらしてくれていることをとてもうれしく感じます。
最近でも新型コロナウイルスの影響でマスクが買えなくなっていますが、私は様々な布を使ってマスクを作っています。
ハンカチを使って作ると少し変わったマスクも作ることができ、家にばかりいる最近の楽しみの一つでもあります。
ミシンの歴史
私が現在購入しているジャノメミシンについて詳しく調べてきました。
世界で初めて家庭用の裁縫用ミシンを開発し製品化したのがジャノメであり、1921年にジャノメは誕生しました。
初めの社名は「パイン裁縫機械製鉄所」でしたが、その後「帝国ミシン工業」、そして「蛇の目産業株式会社」へと変わり、1954年に現在の「蛇の目ミシン工業株式会社」になりました。
蛇の目という名前は自社で販売していた糸巻きの形が蛇の目紋に似ており、蛇の目式と呼ばれていたことに由来しています。
洋裁学校の人気
祖母へのインタビューから、洋裁という技術はいつ人気になって今ではどのようになっているのかが気になり、いろいろと調べてみました。
終戦の1946年、文化服装学院やドレスメーカー女学院が多数の入学者を集めました。
それから、卒業資格要件が問われずに入学でき、短期間の修業年限で実用的な技術が身に着くとされる各種学校の洋裁が人気となっていきました。
当時の人気を裏付けるデータとして、生徒数が1947年には45,000人、1949年に200,000人、1951年には360,000人いたという情報があります。
その洋裁の人気が衰退し始めたのが1976年ごろでした。衰退の直接的な要因としては既製品が豊富に入手できるようになり、家庭裁縫の必要性がなくなったためであるとされています。
その背景として繊維産業の技術革新である合成繊維の事業化と、糸・織物・染色・衣服の製造工程の自動化があります。
またもう一つの衰退の要因として、学校制度と女性の意識変化による社会進出や高等教育機関への進学があります。
1976年には専修学校制度が発足されました。
調べてみてこのような洋裁の人気の興隆と衰退を知り様々な感情が出てきました。祖母が一生懸命学んだ洋裁の人気がファッションの多様化などにより衰退していることを考えると少し残念だと感じます。
最後に
祖母にミシンについてインタビューをすることを通して、祖母が洋裁にどれだけ本気で、真摯に取り組んできたか、今の祖母のあの技術はその過去の苦労からきているのだということを知り、とても感慨深く感じています。
私は高校1年生の頃、祖母からマフラーをもらいました。
そのマフラーはとても使いやすく、温かく、今でも冬にはなくてはならない必需品です。
このインタビューで祖母の過去のことを知ってさらにそのマフラーの大切さに気が付きました。
自分のできることを増やしたいからと仕事の後に学校に通う祖母のその向上心、今でも衰えることのない洋裁の技術、私はそんな祖母のことを心から誇りに思います。
祖母への感謝の気持ちを込めて、私は祖母が作ってくれたその傑作をこれからもずっと大切にしていくでしょう。
私の祖母の通っていた洋裁学校が縮小し合併されたことに表れているように、ミシンを使って洋裁をするということは現在かなり少なくなっているのかもしれません。
私自身、ミシンを使って何かを縫ったという経験は小学生の頃の家庭科の授業でしかなく、さらにそれも簡単な、基本的な縫い方しか習いませんでした。
しかし、今回祖母へのインタビューをしてみて、裁縫ということがどれほど難しく大変なのかを強く感じることができたので何か少しでも祖母の技術を学んでみたいなと、今ではそう感じています。
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