洋裁学校:1970年代まで流行した裁縫教育組織

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洋裁学校とは

洋裁学校とは、1970年代まで流行した洋服裁縫の教育組織や教育機関のことです。

洋裁学校では洋裁技術、デザイン、ファッションなどを教えてきました。駅前や町内に展開する洋裁学校は昭和レトロの風景に溶け込んでいました。

洋裁学校は次のような規模に大別できます。

  1. 大規模…研究所、専門学校、短期大学、大学、およびその一部に専用のコースを設置して運営する
  2. 小規模…自宅または駅前テナントなどを使って派閥流や自流で運営する

厳密には、1のような洋裁・ファッション系科目で学校法人認可を経た組織を洋裁学校といいます。

2のような町中の教室などは学校とはいえません。

しかし、1970年代まではとても流行っていたので、習慣的に洋裁学校といったり、1と区別するときは洋裁学院や洋裁教室などをいいました。

今では1の多くが洋裁からデザインにシフトして、ファッション専門学校やファッション系大学などに転身しています。

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アメリカ・イギリスの洋裁学校

アメリカやイギリスでは洋裁学校を

  • ドレスメーキング・スクール
  • デザイニング・スクール
  • ファッション・スクール

などといいます。

婦人服や子供服を主に取り扱い、教断や縫製の技術を教えてきました。

洋裁学校の教科課程には、次のようなものがあります。

  • 衣服のデザイン
  • デザインを絵姿に表現する描き方
  • 採寸法
  • 採寸を土台にした原型
  • 原型からスタイルへの応用研究
  • 型紙
  • グレーディング
  • 型紙を布の上に乗せて裁断
  • 仮縫い
  • 本縫い、仕上げ
  • ドレービング、ピン・ワーク

など。

学校によっては、

  • 洋裁上の常識
  • 布地の知識
  • 服装史
  • 色彩学
  • 美学デッサン

なども教えています。

洋裁学校:1970年代まで流行した裁縫教育組織

戦後の傾向

欧米にくらべ、日本には洋裁学校の数も生徒数も多かったといわれます。

近代日本の家庭では洋裁を知らない親がたくさんいたので、家庭教育じゃなく外部教育に頼ったからです。

戦後から1970年代までの日本では、既製品があまり普及していなかったために、日常着や子供服などは経済的な理由から家内で作る必要がありました。

洋服の普及は洋裁学校の普及とタイアップしたわけです。

なお、日系移民の多いハワイ、カリフォルニア(以上アメリカ)、サンパウロ(ブラジル)などに日本人経営の洋裁学校が多いのも、戦後の貧しさを一部は反映しています。

1960年代になると、家族用に衣服の修理や衣服の制作をする必要を上まわる内容を教えるようになりました。

なかには、ファッション・デザイナーやパタナーなどの専門家を養成するための洋裁教育を行なう学校も出てきました。

裁縫とデザインを分ける発想が教育課程上に1970年頃にようやく出てきたわけです。一つの目印はモード学園の開校でしょう。

日本で洋裁学校が比較的多かった理由

田中千代は1950年代・1960年代に日本で洋裁学校が普及した理由について、上述した貧困以外に

  • 日本人は裁縫が好き
  • 日本人は手先が器用

という理由を挙げていますが、これは間違い。

この点は国民と特徴を結びつける20世紀ガラパゴス・ナショナリズムです。

今の日本人で裁縫をする人はかなり減りました。

また、日本人の手先が器用という特徴を証明することはできません。

外国の人々にも手先の器用な人はたくさんいます。

また、すでに1960年代に欧米では洋裁文化が衰退していたとも考えられます。

流行を本質と勘違いする間違いには注意したいところです。

日本の洋裁学校の特徴

学校創業者が目立つ

日本の文化は長期的に育たず流行に終わる傾向が強いことを受け、日本の洋裁学校も四半世紀ほどの流行をみただけで消え去りました。

また、日本の洋裁学校の歴史が浅いこともあり、学校創業者が目立つという傾向があります。

それとともに、洋裁なのに派閥が分かれるという枝葉争いが絶えませんでした。代表的なのは文化系VSドレメ系。

どのヨーロッパ人を敬うかによって派閥ができていた面もあります。クリスチャン・ディオール系やピエール・バルマン系など。

育つのはデザイナーだけではない

洋裁学校に通うたくさんの学生たちの全員が、ファッション・デザイナーになるわけではありません。

圧倒的に多くの卒業生たちはCADなどを使うパタナーになったり、ミシンを駆使するミシン縫製工になったりします。

また、商品仕様をアパレル工場に伝えて連携をとる業務などに就くことも。

他にも多くの仕事によってファッション業界やアパレル業界は成り立っています。けっして、募集要項に書いてあるような華やかな世界が待っているわけではありません。

それにもかかわらず、ファッション文化とアパレル労働とを分けた印象を与えたのは洋裁学校が果たしてきた長期にわたる罪です。

派閥争いで微塵に

日本の洋裁学校の創業者には有名なファッション・デザイナーであった人も多いです。彼ら・彼女らは後に日本という狭い地域で欧米文化の宣伝をリードしていきました。

それまでに留学経験と洋裁経験を豊富にしていたので、本人たちの経歴自体は素晴らしいものです。

ただ、派閥争いによる蛸壺化という目先の利益に囚われず、長期にわたり定着するよう、学校横断的に欧米文化を受容していってほしかったなぁと思います。

その点が残念。

組織はともかくとして、服づくりを楽しむことを大きな夢や思い出とともに学生へ与えた点は高く評価すべきだと私は思います。そのような夢や思い出は下の記事をご参照ください。

洋裁学校は洋裁同士での派閥争いがあっただけでなく、和裁との高い壁がありました。

次の広告は「婦人画報」1967年1月号に掲載されたものです。

ざっと見てみましょう。

日本文化の分断を示す広告類。「婦人画報」1967年1月号

左の生け花はおいて、右の伊東衣服研究所と真ん中の霞ヶ丘技芸学院は、洋裁でバッティングしています。

この広告は3ページにわたり、他の学院も載せているので、競争が熾烈だったことを想像します。

洋裁学校関連の年表

洋裁関連の学校や教室などを設立を中心に年表にまとめました。

  • 記載方法ですが「開設主体、開設校・学科等」にし、設立、開校などの文字は省いています。
  • 「~へ」の場合は改称を意味します。
  • 一部、学校関連の裁縫業者、ミシン・メーカーの開店・創業も含みました。

1870年

メアリー・エディー・キダー(米)、横浜ヘボン施療所(現フェリス女学院)。

1872年

エヴァンス夫妻(英)、京都府立新英学校及女紅場(現京都府立鴨沂高等学校)。

1873年

エヴァンス夫妻(英)、時習社。サイゼン(独)裁縫塾。

1878年

J.C.デビソンかC.S.ロング(米)、出島英和学校(後者なら現鎮西学院か?)

1883年

飯島民次郎、飯島貴族婦人専用洋服店。

1886年

知新女学校(不詳、宮城県一関)。

渡辺辰五郎裁縫私塾、共立女子職業学校(現共立女子学園)へ。

1887年

婦人洋服裁縫学校、沢田虎松(仏公使館裁縫方)らが指導。

1899年

子供服・エプロンが高等女学校教授細目に導入。

下田歌子、実践女学校(現実践女子大学)。

1900年

シンガー・ミシン社、横浜中央店と神戸支店を開設。

1901年

横井玉子・藤田文蔵ら、女子美術学校(現女子美術大学)。

1903年

文部省検定裁縫科試験へ洋裁科目導入。

1906年

シンガー社、ミシン裁縫専門学校(東京麹町区有楽町・大阪東区北浜)。

1911年

共立女子職業学校が高等師範科を設置。同科は25年の専門学校令で専門学部へ昇格。

1920年

『婦人之友』で西島芳太郎が洋裁実習と誌上洋裁を担当。

並木伊三郎(飯島民次郎の弟子)、並木婦人子供服裁縫教授所。

1921年

並木教授所が、遠藤政治郎(シンガー・ミシン販売店退職)の協力で文化裁縫女学院(現文化女子大学ほか)へ。

町田菊之助(飯島系仕立業者)、婦人子供服普及会を設立し講習・講演・型紙販売。

飯島栄次、神田に飯島洋裁研究所。

1922年

飯島洋裁研究所(神田)、飯島洋裁学院へ。

1923年

文化裁縫学院、東京府各種学校令により認可、文化裁縫女学校へ。

1926年

加藤謙吉、ラジオ婦人洋裁講座「婦人服の裁断と仕立方」。

杉野芳子、読売新聞で洋裁講座を連載。

杉野芳子、ドレスメーカー・スクール(同年ドレスメーカー女学院へ改称)。

1929年

伊東茂平、イトウ洋裁研究所。(伊東茂平、一連の洋裁学校の略歴、関係者らの情報はこちら

ドレスメーカー女学院(以下ドレメ)、日本初の制帽科。

1935年

伊東茂平、大阪伊東洋裁研究所。

財団法人並木学園を設置、文部省より認可(日本初の法人認可服装教育専門学校)。

1937年

田中千代、田中千代洋裁研究所(田中千代服装学園、現渋谷ファッション&アート専門学校)。

1939年

ドレメ、スタイル画教室とデザイナー養成科。

1940年

桑沢洋子(伊東茂平の弟子)、桑沢服装工房。

伊東茂平、伊東衣服研究所(東京三田)。

1941年

上田安子(伊東茂平の弟子)、上田安子服飾研究所(現上田安子服飾専門学校)。

1947年

戦中50校だった洋裁学校が400校(4,5000人)へ。

1948年

田中千代服装学園、財団法人田中千代学園へ。

1949年

洋裁学校が2,000校(200,000人)へ。

学制改革により、女子美術学校が女子美術大学へ昇格、芸術学部に美術学科と服飾学科を設置。

1950年

伊藤すま子(伊東衣服研究所卒)、伊藤すま子デザイン研究所。

文化女子短期大学(服装学科)。

ドレメ、杉野学園服飾図書館。

1951年

洋裁学校が2,400校(360,000人)へ。

文化裁縫学院、私立学校法に基づき学校法人並木学園へ。

田中千代学園、私立学校法に基づき学校法人田中千代学園へ。

1952年

伊東茂平、女子美術大学付属の女子美術洋裁学校。

1955年

桑沢洋子、桑沢デザイン研究所。

洋裁学校が2,700校(500,000人)へ。

1957年

田中千代学園、東京田中千代服装学園。

ドレメ、杉野学園衣裳博物館。

1961年

ドレメ、文部省より「ドレメ通信教育講座」認可。

1962年

細野久、NHK「婦人百科」でレギュラー出演。

1964年

文化女子大学(家政学部服装学科)。

1965年

菊池織部(多摩美術大学デザイン科卒)、バンタンデザイン研究所。

1966年

桑沢洋子、東京造形大学。

谷まさる、名古屋モード学園。

1971年

谷まさる、大阪モード学園。

1972年

細野久、細野久服装学院。

田中千代学園、田中千代学園短期大学(服飾科)。

1973年

文化服装学院、学校法人名を文化学園へ。

1976年

学校教育法の一部改正(従来の服装学園が専門学校として認可)により、東京田中千代服飾専門学校・田中千代服飾専門。

1979年

文化学園服飾博物館開館。

1981年

谷まさる、東京モード学園。

1985年

文化学園、ファッション情報科学研究所(現文化・服装学総合研究所)。

1988年

ドレメ、ドレスメーカー学院へ。

1994年

文化学園、テキスタイル資料館(現ファッションリソースセンター)。

2000年

田中千代学園短期大学、東京服飾造形短期大学へ。

出典

 

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