特許権以外にさぐる戦前日本ミシン国産化の遅延要因
この記事では、戦前日本ミシン国産化の遅延要因を特許権以外から探っています。
別のページに述べたとおり、環縫ミシンには特許規制があり、戦前の日本では製造販売が遅れました。
しかし、シンガー社の環縫ミシンの特許権が切れてから5年間、日本のミシンメーカーは宙づりでした。
この辺りの事情をお伝えします。
日本で初めてつくられた環縫ミシン
戦前の日本で環縫ミシンを初めて作ったのはブラザー・ミシンの安井正義といわれています。ブラザー社の安井正義は、安井ミシン商会(後にブラザー)創業者の安井兼吉の息子です。
1920年代にドイツ製環縫ミシンの修理業経験をもとに製作を開始しました。
正義は当初から家用ミシンの製造販売を目的としていました。シンガーの広域販売網の下でその販売は難しいと判断していたためです。
そして家用の環縫ミシンを制作し始めたといいます。その製品化が1927年の麦稈帽子製造用環縫ミシンでした。この環縫ミシンは、たぶん単環縫でしょう。
このミシンはブラザー・ミシン社のホームページに写真が掲載されています。エピソードも載っているので、ぜひご覧ください。
参考 麦わら帽子製造用環縫ミシン|ブラザーミュージアム|ブラザー
1930年代の自閉化
1930年頃からシンガー社が日本支店でストライキを強く受けるようになり、同社の特許権も失効する時期にさしかかります。
ブラザーミシンの動向
ところが、なぜか安井正義は当初の目的だった家用の本縫ミシン、とくにシンガー社製ミシン第15種の模倣製造に着手し、方向転換をしました。
シンガー社の特許権切れミシンを積極的に作っていくのではなく、20世紀転換期頃には公知公用の状態にあったシンガー社第15種という古い家用ミシンにのめり込んでいくわけです。
ブラザーにかぎったことではありませんが、シンガーの特許権が切れて自由になった環縫ミシンをさらに深く開発していかず、家用のミシンに固執した面が強いです。
ひょっとすると、1930年代は家用のミシンへの夢が、ミシンメーカーにも消費者にも強かったのかもしれません。
シンガー社の第15種と同シリーズは、1920年代になると生産を強化しました。特許権が切れた機種でも製造台数を増やす場合があります。
それを示すのが次の図です。
二重環縫ミシンの製造
日本で実用的な環縫ミシンが製造販売されたのは、1937年の美馬ミシン商会による二重環縫ミシンだと思われます。これはオーバーロック・ミシンです。
美馬ミシン商会とは現在のペガサス・ミシンです。
結論
環縫ミシンは1937年から1940年代前半にかけて一部のミシン製造企業によって製作されました。
しかし、シンガー社の特許(特明30956)の切れた1932年4月から1937年まで、環縫ミシンは製造販売されなかった点を見落としてはなりません。
じつは単にシンガー社の特許だけで日本の環縫ミシンの製造販売が遅れた訳ではなかったことが分かります。
また、1910年代からしばしば内国人の環縫ミシンに関する特許は許可されていましたが、ミシン製造業全体へ発展・育成されませんでした。
シンガー社の特許権に加え、環縫ミシンの国産化遅延には、特許権消滅後もしばらくの間、ブラザーをはじめとする日本のミシン製造企業が家用ミシンへ関心を偏向させた点を挙げることができます。
文献 下園聰『怒濤を越えて―国産ミシンの父・山本東作の生涯―』日本ミシン工業、1960年
文献 ダイヤモンド社編『無言の信念―ブラザー工業社長安井正義―』ダイヤモンド社、1965年
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