ジャノメミシンTA-761で祖父を支えた祖母の想い

ジャノメミシン
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この記事はいただいたエピソード「ジャノメミシンTA-761で祖父を支えた祖母の想い」を紹介しています。

今回ミシンとの話を教えてくれたインタビューの対象者は祖母です。

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ジャノメミシンTA-761で祖父を支えた祖母の想い

もともと、夫が紳士服の仕立ての仕事をしており、生活の糧として購入しました。

1963年・1964年くらいだったと思います。

夫はモノを買うとなれば何でもかんでも現金主義の人で、ミシンも現金で購入しました。

私自身も洋裁学校を出ていてそれなりに技術はあったので、夫を支える傍らで、自分や子供達の生活のために服を作っていました。

ミシンが人と人を繋ぐ

私には男の子一人、女の子二人の子供がいます。

それぞれ男の子は男の子なりに「こういうデザインだったらかっこいいだろうな」とか、女の子は女の子なりに「こういうデザインだったら可愛いだろうな」と色々想像しながら服を作るのがとても楽しかったです。

それに加えて、男の子と女の子が双子だったので、今で言うペアルックというような服を作って着せるのもすごく楽しかったです。

性別が違うので、大きくなるにつれてそういうことができなくなるのは少し寂しい気もしました。

孫が幼稚園に入園するときも、手提げ鞄を作ったり、周りの子たちの手提げ鞄も作らせてもらったりしました。

孫に作ったもので一番印象に残っているのはツナギです。孫が私の家に来た時、私の作ったツナギを着て私の方までトコトコ可愛らしく歩いてきたことを今でも覚えています。

その時に作った服は次の孫、また次の孫へと渡りました。

その服を見ると、今までそれを着ていたそれぞれの孫との様々な思い出を重ね合わせられるので本当に作って良かったと思います。

本当に自分が作りたい服を作っていただけなので、苦労もとくにありませんでした。その服を着て喜んでいる子供や孫を見るだけで幸せな気持ちでいっぱいでした。

洋裁学校

技術は洋裁学校で学びました。

正確な名前は忘れてしまいましたが、杉野ドレメ女学院という東京の学校の系列校に通っていました。比較的家から近い場所にあったので、徒歩で通えていました。

花嫁修業の場

洋裁学校では裁断の仕方や裁断後の縫い方、デザインの仕方、採寸の仕方などを学びました。

今の大学にも経済学部や商学部、社会学部や文学部など、様々な学部、学科があると思います。

それと同じように、洋裁学校にも洋裁科だけでなく、あまり正確な名前は憶えていませんが、和服科、裁断科、編み物科などの様々な分野がありました。

また、服に関する勉強だけでなく、お月謝を別で支払うことで生け花や茶道を習うこともできました。

私も形だけですが習っていました。そういった色々なことを学べるので、言うなれば洋裁学校は花嫁修業をする学校であったと思います。

ファッションショー

また、勉強だけでなく、楽しいこともたくさんありました。

現代での高校や大学でも文化祭など、様々な楽しい催しがあると思います。

それと同じように、私の洋裁学校にもファッションショーなるものがありました。ファッションショーを成功させるために「デザインはこういう風にしたら見栄えが良いんじゃないか」とあれこれ案を出し合って準備するのがとても楽しかったです。

あれだけ頑張って準備して、当日大成功したことは今でも忘れません。

時々、当時洋裁学校に一緒に通っていた友達と会って思い出を語り合うことがあります。いつまで経っても若いころの思い出を話すことは楽しいことです。

洋裁学校での経験は私にとっての宝であると言えます。洋裁学校で色々な経験ができたからこそ、今の自分があるのだと思います。

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ミシンの今

家をリフォームして娘の家族と一緒に住むことになりました。

それに際して、もともと使っていたミシンには愛着がありましたが、夫も紳士服の仕立ての仕事を辞めており、私自身も歳をとって目も見えなくなってきたのでミシンを使うこともないだろうと思い、古着を集めるのが好きな友人にあげてしまいました。

新しいミシンに対する苦悩

ここ最近、新しい孫が生まれました。

それに際してまた服を作ってみたいという気持ちが芽生えたので、新しいミシンを購入しました。しかし非常に使いにくかったです。

私がもともと使っていたミシンは旧式で、いわゆる工業ミシンと呼ばれるものです。工業ミシンと呼ばれるだけあって、硬いもの、とくにジーンズなども縫いやすかったです。

新しいミシンはボタン一つであれこれできたり、非常に便利にはなりましたが、私自身工業ミシンで縫うことに慣れていたので、やはりジーンズの裾上げなどをしようと思うと縫いづらかったです。ジーンズの硬い部分に「コツン」と引っかかるたびに嫌気がさしました。

また、昔のミシンを購入すると、ミシン屋さんが家に来てくれて、手取り足取り「ここをこういう風にすればこうなる」というのを教えてくれました。すごく分かりやすかったです。

けれど、新しいミシンの場合、ミシンにDVDがついてきて、そのDVDを見て使い方を学ぶという感じでした。「ここをこうしてこうします」と画面の中で話されても正直理解しきれないです。

便利な時代になったとしみじみ思いますが、私みたいな老人にはDVDだけでは少し難しいです。そもそもDVDの見方すらわからなかったんですから。

ミシンだけでなく、私たちは様々な時代の変化の中に生きています。そういった時代の変化に対応しようとは思っていますが、なかなか対応しきれないままです。

取り戻すミシン

今まで述べたように、新しいミシンは私にとって非常に使いにくかったので、友人にあげていたミシンを返してもらおうと思いました。

とても言いづらかったのですが、お金のやり取りがあったわけではないので、すんなり返していただけました。

今でもその古いミシンを使っていますが、やっぱり今まで使い込んでいた工業ミシンに慣れていたので、何をするにも使いやすく感じました。

新しいミシンは三階の奥底に眠っています。娘がやる気を出して新しいミシンを使えるようになってくれたら良いな、なんて思っています。

私の娘もそうですが、私より下の世代でミシンを扱える人が少なくなっており、その点は悲しく思います。

最後に

今回のインタビューを通して、祖母のことをより深く知ることが出来ました。

ミシンを触っている姿も見たことが無かったので、まさか洋裁学校に通っていたなんて思ってもいませんでした。

インタビューの後、祖母は「私と夫の馴れ初めも今度教えてあげる」と嬉しそうに話してくれました。このインタビューを通して、私と祖母の関係がより親密になれた気がします。

また、新しいミシンが使いにくかったということを聞いて、技術が進歩するというのは人間にとって喜ばしいことですが、「技術の進歩」が全てではないんだということも感じさせられました。

闇雲に技術を進歩させるのではなく、どこにどういったニーズがあるのかということを考えていくことの方が重要だと思いました。

加えて、私自身知らず知らずのうちに祖母から愛情を受けていたということにも気づかされました。私が当時来ていた手作りの服は弟へ渡り、別の従兄弟にも渡りました。

ミシンでのモノづくりを通して「人と人が繋がる」という部分を深く考えさせられました。

今現在、私の親世代、私たちの世代において、ミシンを扱える人が少なくなっているように感じます。そういう部分でも、昔のように「手作りの愛情」を受ける機会も少なくなっていると思います。

男性は外で働き、女性はうちで働くという固定観念はもう古いと思います。私自身も祖母からミシンの技術を教わってみたいと思えました。

そしてその技術が子供に、そしてその子供にと渡っていけば、「手作りの愛情」を忘れることのない世の中になっていくのではないかと感じました。

ジャノメミシンTA-761で祖父を支えた祖母の想い

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