ミシンのエピソード「僕より年上の現役ミシン「ジャノメ FAVEURS EX 4150」」をご紹介しています。
はじめに
インタビュー対象者は私の母です(母方の祖母にも少し聞きました)。
ミシンはジャノメの「FAVEURS EX 4150」(ファヴール)です。新型コロナウイルスの影響で実家のある愛知県に帰省していたため、母に直接エピソードを聞くことができました。
僕より年上の現役ミシン「ジャノメ FAVEURS EX 4150」
ミシンの購入経緯・時期
1998年、結婚するタイミングに母親に購入をすすめられて、愛知県西尾市の実家近くにある手芸屋さんで買いました。
シリーズや仕様にこだわりがあって買ったわけではなく、安心感のあるメーカーの中で使いやすそうなものを選びました。
自分のためだけでなく、これから増えていく家族にも何か作ってあげたいと思って買いました。
当時もデジタル式のミシンも売っていましたが、ハイスペックなものを自分は扱えないと思い、特別な機能のないアナログ式のミシンを購入しました。
そして、買って以降21年間1度も壊れることなく今でも使えており、自分の身の丈に合った良い買い物ができたと思っています。
このミシンに対する母の想い
今家にある機械の中で一番古いものがこのミシンです。
私以外使わないし、私だけのものになってます。
壊れたことないし、私の結婚後の人生に寄り添ってくれています。
あのとき買って良かった。買うタイミングとしてはベストだったと思います。
でも最近はあまり使わなくなってきました。ファストファッションが世の中に進出してきて、服は買ったほうが早いし楽だしで。
子供たちが大きくなって手作りの布製品を求められなくなったこともミシンを使わなくなった理由の一つです。少し残念。
でも新型コロナウイルスの騒動を通じて、必要なものを自分の手で作っていくことは大事なことだと最近また思い始めています。
結婚する前までのミシンとのふれあい
母の子供時代
子供だった頃、実家には2台のミシンがありました。
一台は母が嫁入り道具として持ってきたもの、もう一台は音も見た目もスピードも、当時まだ今ほどコンパクトではなかった家庭用ミシンと比べ物にならないくらいごつい、工業用のものでした。
当時母は、その工業用ミシンを借りて、シーツをつくる内職をしていました。
せまい家の一番広い和室を内職部屋として、そのミシンが日当たりのいい床の間の真ん前を占領していました。いつでも母が仕事を始められるよう、出したままになっていました。
なにせ縫うものがシーツなので場所を取ります。
一旦仕事を始めると、騒音で母に私の声は届かないし、テレビの音も聞こえず、少し嫌だなと思うこともありました。
一方、いいこともありました。
母は、私と姉にスカートやワンピース、お昼寝布団やベットカバーや小物など、それこそ工業用ミシンだからこそのスピードで手際よくつくってくれていました。
実家の近くの手芸屋も、何度も連れて行ってもらいました。
かわいい手作りの見本が沢山並ぶその手芸屋が私は大好きで、フェルトでマスコットを作ったり刺繍をしたりするうちに手芸が好きになりました。
幼いころから手芸や裁縫が身近にあり、母がミシンを使っている姿はよく見ていました。
細かい部品に布から出る埃がすぐにたまってしまうこと、たくさんの端切れごみが出ること、たまに油をさして手入れをしなければいけないことも母を見て知っていました。
母の短期大学生時代
そんな流れで大学は名古屋市立女子短期大学の被服科を選びました。
実習でブラウスやスカートなど自分の洋服を作りました。デザイン、採寸、型紙起こしなど基本を学びました。
大学が公立だったからだと思いますが、平成だったにもかかわらず、実習で使うミシンが電動ミシンではなく、手動ならぬ足動の足踏式ミシンでした。
NHKの朝の連続ドラマ、カーネーションで足踏式ミシンを見たときは軽く興奮しました。
被服科時代の友人達は、縫って物を作ることが好きな子が多く、おしゃれで、本格的な服を作ることができる人も多かったです。ウエディングドレスを自分で作った子もいます。
「装苑」という雑誌が流行っていました。
名古屋市で一番大きい手芸屋さん(店名:大塚屋)に友達とよく出かけました。
妻(レイレイ)も名古屋に住んでいたころ、大塚屋へよく行ったそうです。
しかし在学中にバブルがはじけ、就職難になってしまったこともあり、アパレル関係の職に就いた人は少なかったです。
何人かは東京の服飾専門学校に進学しました。私も被服の勉強に全く関係のない輸送機器メーカーに就職しました。
母がミシンで作ったものいろいろ
自分のミシンで初めに張り切って作ったのを覚えているのは淡い黄色のベビー服です。
生まれた息子に着せてみたけれど成長のスピードが速すぎて案外着せる期間は短かったです。
季節もありますし。息子が幼稚園に入園するとミシンの出番が一気に増えました。
思えばあの時が、一番ミシンが活躍した時だと思います。レッスンバッグ、ランチョンマット、袋などです。
息子が通った幼稚園は自分の身の回りのことを自分で頑張ってやらせるという方針でした。
子供が混乱しないよう、袋の大きさや数の指定がありました。市販のものでは対応できないものが多く、しかも沢山。
ここぞとばかりに頑張って作りました。
周りのママ友達は業者に受注して作ってもらう人が多かったのですが私は作りました。私には使い慣れたミシンがあったから。
その後、下の娘も同じ幼稚園に行ったため、6年間はミシンをよく引っ張り出しては何やらカタカタと夜中に作っていたのを思い出します。娘は小学生のころバレエを習っていて、その衣装や小物づくりをしました。
昨年、一昨年は高校のダンス部の衣装を縫いました。難しくてお友達に手伝ってもらいながら。やはり必要に迫られると頑張れるものです。
最近だと、新型コロナウイルスで必要になった布マスクを家族分作りました。
祖母にも聞いてみた
40年近く前、35歳から40歳くらいまで内職でミシンを使って敷布や座布団を作っていました。
そこで借りていたのはシンガー製の大きな工業用ミシンでした。
愛知県幡豆郡吉良町(今は合併されて愛知県西尾市となっている)にあった業者の人から裁断した布や糸、工業用ミシンを借りて内職をしていました。
工業用ミシンは家庭用ミシンとはすべての部品が違い、縫うスピードも段違いに早かったです。
とても大きな工業用ミシンでホコリが溜まるため、自宅では限界を感じて、小さなプレハブを作りそこで作業していました。
田舎で近所に二人の娘を預けられる人や両親がいなかったため外に働きに出ることができず、内職でお金を稼いでいました。
また他にも、友人と一緒にベストの襟やセーターの袖と前身ごろを縫い合わせる内職もしていました。
そこで借りて使っていたのはそれまで使っていたものとは違う、糸を4本使って、切ったところをかがり縫い(縢縫)していくロックミシンでした。
専門の学校も出ておらず、ミシンの使い方を丁寧に教えてくれる大人も周りにいなかったため、見様見真似でミシンをつかっていました。
50歳でおばあちゃんになり、孫の世話で忙しくなってからはミシンを使うことが減ってしまったけれど、それでも孫のためのお昼寝布団やハンカチなどはつくりました。
最後に
こうして振り返ってみると、僕は母にいろいろなものをミシンで作ってもらっていたのだなあと思いました。
幼稚園児だった時母が作ってくれたアップリケが入ったいくつもの袋を今でも覚えていました。柄や使い道も記憶に残っています。
また、母自身が高校生時代に作ったというエプロンを僕が小学校時代、調理実習の時に使っていました。
深い緑のギンガムチェックだったのを覚えています。
母は家族のため、祖母は仕事としてミシンを使っていたため、ミシンに対する二人の思いが少し違っていて面白かったです。
話を聞いていると、ミシンは祖母にとっては生きていくためのもの、母にとっては生活を豊かにするものなのだと感じました。
僕にとってミシンとは小学校の家庭科の授業で少しならっただけのものでしたが、実は僕の人生のいろいろな場面でミシンは僕に寄り添っていてくれていたことに気づきました。
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