シンガー社は創業間もない1850年代に南北アメリカ大陸へ販売店を開設していきました。
そして、1855年にシンガー社はパリ万博で初めて金賞を受賞しました。
これを契機にパリ支店を開設します。ヨーロッパへの進出がはじまりました。
シンガー社の多国籍化は1850年代にはじまったわけです。
この記事では
前もって次のシートをご覧になって読んでいただくとワクワク感をもてるかと思います。
ご一読ください。
◎1850年代~1860年代…____
◎1850年代~1880年代…____+その____
◎1880年代~1900年代…____・____→____
欧州の輸入抵抗:シンガー社製ミシンへの抵抗とアメリカからの輸入への抵抗
◎オーストリア・ハンガリー帝国の抵抗策は?
◎オスマン帝国の抵抗策は?
販売方式の変化
シンガー社の販売方式の変化は次のような流れになりました。
19世紀後半の販売方式の流れ
- 「販売代理商」(販売権委譲)方式
- 「フランチャイズ」(特約代理店)方式
- 「直営販売店」(直営支店)方式
- 後者へ比重を移しつつ、相互補完的に進行
- 多国籍企業化は「3」を軸に展開
月賦販売の導入
- 月賦販売(マンスリーローン)を「2」の段階で導入し「3」の段階で販促活動の原動力へ
- 「2」と「3」を軸に1878年にアメリカ市場を完全網羅へ
販売面からみたシンガー社の多国籍化
パリ支店を開設したあと、海外販売店の拡大は急展開しました。
- 1856年のグラスゴー(英国スコットランド)
- 1858年のリオデジャネイロ(ブラジル)
- 1863年のハンブルク(ドイツ)
このように続きました。
市民戦争の始まった1861年、すでにヨーロッパでの販売額は米国内販売額を超えていました。
1870年にイングランドで販売・物流センターを設置し、19世紀末にかけて同社は支店網拡大を続けます。
シンガー社は1870年代までに、南北アメリカ大陸、欧州、アフリカ、アジア、オセアニアの6大陸にまたがり販売網を拡大しました。
この時点で未開拓大市場には、オスマン帝国圏、清国圏、ロシアを残すのみでした。いずれの地域にも1880年代に市場開拓が試みられました。
オスマン帝国圏とロシアでは世紀転換期にかけて同製社ミシンは普及しました。
1910年代にいたるロシアでの成功を受けてロバート・B・デイヴィス(Robert B. Davies)は「平和産業の世界征服」が実現されたと指摘しています。
しかし、清国市場(中国市場)開拓にシンガー社は概ね失敗したのです。
この時期の主な輸出先・販売先はヨーロッパ全土・ロシア、南北アメリカ大陸、ヨーロッパ植民地下のアフリカ大陸の一部、そしてインドでした。
マイラ・ウィルキンズによると、シンガー社ロンドン支店は、1880年代に中国、オーストラリア、フィリピン、ブラジルへ販売センターを設立し「同社の国際的販売機構の手に負えない拡大の最後の動き」をみせました。
ハンブルク管轄 | ロンドン管轄 | ニューヨーク管轄 | |
欧州 | 北部・中部 | GBR, ハンブルク管轄外の欧州 | ― |
北米大陸 | ― | ― | USA, CAN, MEX |
南米大陸 | ― | 南部 | 北部、カリブ海域 |
豪州 | ― | AUS, NZL | ― |
アフリカ | ― | ZAF他 | ― |
アジア | ― | 東南(PHL) 南(IND) | ― |
注:GBRは英国、AUSはオーストラリア、NZLはニュー・ジーランド、PHLはフィリピン、INDはインド、USAは米国、CANはカナダ、MEXはメキシコ。
1899年頃には下図のようにシンガー社支店の管轄が広がりました。
同社の世界制覇を完了させた最終市場は青文字にしました。表の作成に参考した文献は上に準じます。
ハンブルク管轄 | ロンドン管轄 | ニューヨーク管轄 | |
欧州 | 北部・中部 | GBR, ハンブルク管轄外の欧州, RUS | ― |
北米大陸 | ― | ― | USA, CAN, MEX |
南米大陸 | ― | 南部 | 北部、カリブ海域 |
豪州 | ― | AUS, NZL | ― |
アフリカ | ― | ZAF他 | ― |
アジア | ― | 東南(PHL, IDN) 南(IND)、中東、東(CHN) | ― |
広告カードにみる多国籍化
シンガー社はニューヨーク州バッファローで1901年に開催された汎アメリカ博覧会で二つの金メダルを受賞しました。
その頃に女性向けファッション雑誌『ハーパース・バザー』誌に「The Singer Seam UNITES TWO CONTINENTS」(シンガーは二大陸を縫う)というキャッチコピーを記し、南北アメリカ大陸をシンガー社が縫合する趣旨の広告を掲載しました。
この広告はモードの世紀の「昔のハーパーズ・バザー」に示しました。ここではそれに似た次の画像を紹介します。
両大陸の中程ほど、後に本格的な開通工事に入るパナマ運河周辺を白色ドレスの女性が足踏式ミシンで縫い合わせています。
この広告は家用ミシンを想定したものと考えられます。
したがって製造所・工場の多国籍化よりも販売店の多国籍化を示す資料です。
民族衣装型トレード・カードにみる販売店の広がり
コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念し、1893年にシカゴで開催された万国博覧会(北米シカゴ府万国大博覧会)用に、シンガー社は写真のリソグラフ複製による広告カードをセット販売しました。
これには当時の普段着を着用した種々の国々・地域の人々が、シンガー社製の手廻式ミシンまたは足踏式ミシンと一緒に描かれています。
姿勢は1名~数名がミシンに向かって座るか立つかしています。
裏面には、当該地域の地誌が紹介され、当地の日常着がシンガー社製ミシンで縫製可能であるという文面が記されています。
同書の紹介する広告カードから想定されるシンガー社の販売先をアフリカ大陸、東南アジア諸島、ユーラシア大陸の三つに大別すると以下のとおりです。
- アフリカ大陸…アルジェリア、チュニジア、ズールランド3ヵ国
- 東南アジア諸島…スリランカ、フィリピンの2ヵ国
- ユーラシア大陸…インド、イタリア、オランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、ハンガリー、ボスニア、ポルトガル、ルーマニア、ミャンマー、中国、日本
鳥卵型トレード・カードにみる販売店の広がり
この記事「One hour versus fourteen… | modafabrics.com」(外部サイト)は1920年代にシンガー社が販売したトレード・カードを展示しています。1898年に印刷されたカードも確認できます。
表面は上述のパターンで、裏面が異なります。
表面記載地に生息する小鳥がカラーのリソグラフで印刷されています。
この広告カードから確認できることは、シンガー・ミシンが万国共通の機械であり、他方で、利用者とその服装、小鳥といった図柄が販売先固有の像であるという、両義的な広告戦略が採られていることです。
なお、カード表面には、上部に「シンガー縫製機は最高品だと世界中で知られており、どの国の女性にも愛されています」という文章が記されています。
下部には「世界中の全市街地に販売店がある」との句が記載されています。
フランスを押さえるとどうなるのか?
下のトレード・カードからは仏国パリのセバストポル大通り94番地にシンガー社の販売店があったことがわかります。
モード産業やファッション文化発祥の地といわれ、米国とならびミシン開発国の一つに列せられるフランスでさえ、シンガー社にとっては格好の市場でした。
というのも、チュニジアやアルジェリアなどでも販売網を広げていたからです。
支店設置先の国が他国を侵略し、保護領や植民地としている場合、シンガー社製品や支店網が拡大したわけです。
ヨーロッパやその植民地の抵抗
英国スコットランドにクライドバンク工場が開設した1883年まで、シンガー社は「ヨーロッパのアメリカ化」阻止をめざすヨーロッパ諸国の保護政策に苦戦を強いられていました。
二つの有名な抵抗
- オーストリア・ハンガリー帝国はシンガー社製ミシンに高い関税をかけました。
- オスマン帝国はアメリカからの輸入ミシンに高い関税をかけました。
アメリカ多国籍企業の進出や製品普及に対し、19世紀末にヨーロッパの新聞は「ヨーロッパのアメリカ化」を憂慮した記事を挙って掲載しています。
1880年代に欧州の抵抗は激化しましたが、シンガー社は1の事例にも2の事例にも前代未聞の策を講じて、1890年代にはふつうに輸出ができる状態になりました。
シンガー社が行なった対策は次のとおりでした。
- オーストリア・ハンガリー帝国にたいしてシンガー社は自社製品を備品の段階で輸出して、オーストリア内につくった組立工場でミシンを完成させて、オーストリア内で販売しました。
- オスマン帝国にたいしてシンガー社はイギリスのロンドン支店から輸出することで「アメリカからの輸入」じゃない、つまり「イギリスからの輸入」に切り替えてオスマン帝国内へ輸出しました。
どこか屁理屈な気もしますが、当時の政治家や経済学者が対応できなかった策を講じたシンガー社に感服します。
フランスの抵抗
産業面での「ヨーロッパのアメリカ化」への抵抗策は、手縫いのイメージを付与しつつ、ファッション誌を通じた誇大広告によって、ファッションやモードを産業や文化として展開させました。
「婦人女児クチュール・コンフェクション組合」(1868年設立)が代表例です。
フランスでは、フランス革命によってギルド制が崩壊し、19世紀中期にミシンが普及したことで、それまでフランスの宮廷にあった衣服製作という職業がミシン縫製工との相克段階に入り、モード産業がうまれました。
フランスではナポレオン3世の第二帝政期に既製服産業が本格化し、1860年代のパリでは靴屋が383台、仕立屋が337台のミシンを使っていたそうです。
1900年のシンガー社支店はフランスに115店舗、植民地アルジェリアに6店舗、保護領チュニジアに2店舗が確認されます。
1906年になると236店に広がり、6年間で倍増の勢いをみせました。
オーストラリアの抵抗
イギリス植民地のオーストラリアでは、1907年に一時的措置としてイギリス以外からの輸入機械に対し10%の関税が2か月間だけ導入されました。
その間にシンガー社は対オーストラリア向けミシンの輸出元をアメリカからイギリス支店へ切り替えました。
その後、イギリス支店はオーストラリア小売商と正常な取引を確立しました。
おわりに : シンガー社の抱えた多国籍化のリスク
このようなシンガー社の世界展開にはリスクもありました。
多国籍企業が自社工場や販売店を外国へ張り巡らせたとき、当該国が戦場になるかぎり被害を受けます。
たとえば、第2次世界大戦ではヨーロッパ各地の支店網に被害が及び、最大の被害はドイツでした。この間、シンガー社はヨーロッパで多くの職工や店員を失いました。
米国内のシンガー社工場は1930年代以降に軍需工場化し、職工たちは大型戦闘爆撃機B29の大量生産用コンピュータの開発や砂漠戦用防砂マスクの生産に従事しました。
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