この記事ではいただいたミシンのエピソード「祖母と曾祖母の愛用したシンガーミシン」をご紹介しています。
インタビュー対象者は祖母と曾祖母です。
ミシンのメーカーと機種はシンガーQT-7です。
- 定格電圧:100V
- 定格周波数:50Hz/60Hz
- 定格消費電力70W
ミシンとの出会い
私が最初にミシンと出会ったのは中学を卒業して地元にあった、市立の文化服装学院へ入学した時のことです。
この学校は、かなり急な丘の上に一階建ての建物が二棟並んだところにありました。私の住む岩手県大船渡市は小さな田舎町です。
にもかかわらず、市内には知っているだけで、3つもの洋裁学校があったことからその当時は洋裁学校に通う生徒さんが多かったのだと思います。
また、大船渡市に限った話にはなりますが、終戦後に私の通った私立の文化服装学院はできたことから、地元周辺の洋裁学校もこの前後に多くができてきたかと思われます。
話は戻り、私の通っていた学校は本科2年、研究科1年の合わせて3年制の学校でした。
また、この学校の特徴としては和裁、洋裁のほかに、生け花は草月流、茶は裏千家、日本舞踊は若柳流と、この3つを副教科のような形で学ぶ、当時の地元の洋裁学校から比べると、極めて特殊な学校でした。
今振り返ると、日本舞踊の先生が鬼のように怖かったのを思い出します。
通っていた人数は全員で約45名ほどで、卒業後は主に地元の店の縫い子さんや、縫製工場へと就職していきました。
ただ、卒業後、結婚をする人もいたことから花嫁学校との意味合いも強かったのではないかと感じています。
現に研究科から入学される方は結婚された方が多かった記憶があります。
このような学校に通っていた私ですが、一番の思い出は生涯にわたって交流を持つ先生に出会えたことです。その先生は今もなおご健在で、月に1度は一緒にお食事会やお茶会を開いて楽しんでいます。
裁縫の思い出
この学校を卒業後、私は結婚をして、嫁入り道具の1つとして親に買ってもらったのがシンガー製のミシンでした。
1970年のことです。
今はもうありませんが黒色のミシンだったのを覚えています。
また、その当時の地元の嫁入り道具はタンス、ミシン、アイロン、編み機の4つが主流であったことから、ミシンがいかに大切なものであったかがわかってもらえると思います。
結婚をし、子供生まれると、ミシンを使う機会がより一層増えました。
子供服は子供が4人いたのでとても縫うのが大変でした。
さらに私の嫁ぎ先は漁師の家系であったため、時間をなかなか取ることが難しく、寝る間も惜しんで裁縫に明け暮れていたことを思い出します。
そんな中、段々とミシンにも慣れ、1つ大きなものを作ってみたいと思い作ったものが、こたつの上掛けです。
家のこたつが堀こたつで、大きかったのもあり、これを作るのにはかなりの時間がかかりましたが、趣味としても楽しんでコツコツと作りました。
これも今となっては良い思い出です。
思わぬ事故
裁縫に慣れてきた矢先、思わぬ事故に見舞われたことを思い出します。
縫物をしていた時のこと、中指の爪に針が刺さってしまったのです。
この時は、とても焦りました。
ゆっくりと針を抜くと、かなり痛かったです。
今となっては大丈夫ですが、刺さってからしばらくは爪がへこんでいるように思えました。
母とミシン
私には母がいます。もうすぐ90歳になる母で、今はものすごく元気ですが、10年前は津波と病気が重なったことでとても今のような元気はありませんでした。
そんな母を救ったのが裁縫でした。
震災が起こった3月11日私の地元であるここ岩手県大船渡市にもあの大きな大津波が街を襲いました。
自宅は何とか無事だったものの、市街地の大部分は津波によって破壊され、誰しもが絶望の淵にいました。
そのような中で、お年寄りの集いの場も無くなり、一日中家にいる日々が続きました。
しかし、ここで裁縫に出会います。
これはボランティアで大船渡に来ていた方々が、人との集いの場をも求めてるといった市民の希望に答え、着物のリフォームを教えていただける場を提供してもらったのがそもそもの始まりでした。
ここで母は、当時80歳ながらミシンの使い方を覚え、自分の着物を服にリフォームしてみたりと、積極的にその会に参加しました。
そこに参加したことにより、新しい友達もでき、生き生きとした表情になっていきました。
今では、新型コロナ・ウイルスによってマスクが不足したことで、家族全員のマスクを縫ってくれたり、誕生日にはバックを作ってくれたりと生きがいを見つけて毎日元気いっぱい活動しています。
このように、母が元気になったのも、ボランティアで大船渡へ駆けつけてくださった皆さんが、寄り添ってくれたからだと考えています。
本当にありがとうございました。
生きがい
先ほどのとおり、母が元気になり生きがいとしているのはミシンです。
今日ミシンを使う人も減り、洋裁学校も減少の一途をたどる今、言い過ぎかもしれませんが、ミシンが人の命を救ったといえるのではないでしょうか。
現に母とは別々に暮らしているのですが、何かミシンで作ったものを渡しに来るためにわざわざ、歩いて1㎞位の距離を届けに来るのです。
そこで、みんなの笑顔をみて、自分も笑顔で帰っていくのですが、その笑顔のきっかけは、母がミシンで作ったものなわけです。
ですから、ミシンが母の生きがいとなり、母の命を守っていると思います。
私と母をつなぐもの
私と母をつなぐもの、それはミシンだと思っています。
ミシンと出会うまで、私と母をつなぐ趣味はありませんでした。それに、母の病気や東日本大震災が重なり家族内の雰囲気は暗かったように思います。
しかし、そのような暗い雰囲気を打ち消してくれたのがミシンでした。ミシンが、私と母に共通の趣味を与えてくれ、今ではお互いにものを作ったりして日々楽しい日々を送っています。
また、ミシンのおかげで母が週に2,3日は家に来るようになり今では家族内に笑顔があふれています。
幸いなことに、母は一度病気になった後は大きな病気を患うこともなく元気です。
この元気の源を与えてくれたのもミシンがあったからこそだと思っています。
ミシンが私と母をつないでくれているのです。
そして、ミシンが私達家族全員を笑顔にしてくれているのではないかと今では思っています。
ミシンに感謝です。
最後に
私は、今回インタビューをして、ミシンというものが祖母の心の中に深く根付いているなということを一番に感じました。
それは、祖母にインタビューをしているときに、ミシンの話をする祖母の顔が生き生きとしていたからです。
思えば、祖母の人生は地元の洋裁学校に中学を卒業してすぐに入学したため、今までの人生のほとんどをミシンと共に過ごしていることになります。
そして、今では曾祖母もミシンを使うようになり、お互いの共通の趣味として日々2人で楽しんでいます。
ここ数年前までは、曾祖母の病気や震災で沈んでいた心も今はそんなことなかったかのように日々を楽しんでいる祖母を見て、私はミシンが祖母と曾祖母に笑顔を与えてくれているのではないかなと思いました。
本当にミシンに感謝です。
こんなにも2人が笑顔になったのも共通の趣味であるミシンがあったからです。
何か趣味を見つけ没頭するということはとても大事だと思います。
その点、私は後3年大学生活が残っています。
この3年の間に2人のように何かに没頭できるものを見つけていきたいと今回インタビューをして改めて思いました。
本当に今回のインタビューをして考えさせられることが多く、とても実りあるインタビューでした。
インタビューを引き受けてくれた祖母に感謝です。
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