この記事では19世紀中期アメリカに誕生するまでのミシン開発史を解説しています。
ヨーロッパでのミシン開発が活気づいていた様子を知ることができます。
手縫いだけの時代
19世紀の中ごろまで、世界中の人々はすべて服を手作りしていました。
家族がかりで針と糸を使って、ズボン、シャツ、ドレスなどを縫っていました。一日中作業され、ときには夜更かすることもありました。
セイラーたちは海を渡るために船の帆布を作ったり、西部旅行のためのワゴンカバーを作ったりしました。
毎日、女子たちは数時間も細かく注意深いステッチ(縫製)に時間を使っていました。幼いころからステッチを習得し、大人になると家族の着る服をすべて作りました。
「なぜミシンの開発は遅れたか」に述べたように、18世紀中ごろにスタートしたイギリス産業革命では、糸生産用の諸機械(まとめて紡績機/spinning machine)や織物生産用の機械(力織機/power loom machine)を開発改良し、ミシンは開発すらされませんでした。
そして、糸と織物は世界中で溢れかえるようになります。
ですから18世紀中ごろからミシン実用化の19世紀中まで、衣服を手で作る作業には極度な負担があったと思います。
多少とも布までは手に入りやすくなったので、布を衣服や雑貨にどんどん消費していくという負担が増えたはずです。
ミシンが実用化されたのは19世紀中ごろですが、ミシンのアイデア自体は18世紀に登場しています。
18世紀・19世紀に特許権の形でミシン開発は具体的な形をもっていました。
その状況を次にみましょう。
19世紀中期アメリカに誕生するまでのミシン開発史
初期ヨーロッパの試み:特許と発明の痕跡(1830年代まで)
ミシンの特許は1755年にイギリスで、1819年にオーストリアで、1826年にアメリカで取得されていました。18世紀のフランスではミシンは工業用に設計されました。
1755年、アメリカの発明者(ドイツ説あり)、チャールズ・T・ヴィーゼンタール(ヴァイセンタール)は針を回転させる必要をなくすために、二重尖針を設計して特許を取得しました。
また、1770年にイギリスのロバート・アルソップが縁縫い用のミシンを開発しました。
トマス・セイント
ロンドンを拠点とするキャビネットメーカーを営んでいたイギリスのトマス・セイント(セント)は、1790年7月17日に皮革類を縫う環縫ミシンを発明し、特許を得ました。
これは、靴、ブーツ、スリッパ、下駄などを組み立てるように設計された機械の英国特許「1764」です。この特許は現代の縫製概念の一部を生み出しています。
このミシンの操作は鈎針編み(カギバリアミ)の手の動きを模倣し、平らなテーブルの上に吊り下げられた垂直に取り付けられた突き錐を採用しました。ハンドクランクがカムリンクシャフトを回転させて、突き抜けて革の穴を貫通しました。ノッチ付きのアイレス針で、スプールの糸を穴に引き込みます。
また、トマス・セイントは自分のミシンは布を自動供給すると主張しました。
彼の作ったミシンには、上下に動く突錐、突錐穴に糸をとおす叉状棒、この棒を支えるアーム(腕形)に関して今日のミシンと同じ形や構造をもっていました。
しかし、断続的にしか供給できませんでした。
もし、セイントのミシンがアイポイントの針を使っていたならば、後代のシンガー社の発明を先取りしていたかもしれません。
このミシンは、ノミで革に穴を開け、穴の上に糸を置いて押し込み、その糸を鉤状のもので裏面に引き出して縫合するものでした。針元が不完全だったようです。
トマス・ストーン
1804年にイギリスのトマス・ストーンとジェームス・ヘンダーソンは縢縫ミシンの特許を得ました(直線縫説あり)。
このミシンを1814年にオーストリアのヨゼフ・マデルス・ペルゲルが機械化しました。
翌1805年2月14日にパリにいたトマス・ストーンは自分の名前で「すべてを柔軟にセグメントの側面を結合するためのミシン」を根拠に特許侵害防止法を取得しました。
ストーン氏は彼の機械が「軍隊と海軍のために服を準備するのにとくに役立つだろう」と主張しました。
この時の発表した報告はミシン1台で「百人分の針」と同じくらい生産できると宣言しています。
しかし、残念ながらストーン氏の可能性ある繁栄の記録はまったく残されていません。
他の欧州発明家たち
トーマス・ストーンの後、多くの初歩的な綴じ機や縫い期はは商業現場では用途が限られていました。
残念なことに、これらの機能は不十分な装置だったので、ほとんど公衆の興味を引きませんでした。
そして25年のも間、自動縫製装置を開発することは欧州でも米国でも不可能でした。
また、フィラデルフィアのヘンリー・ライは、革を縫う機械を発明して、1826年3月10日に特許を取得しました。
しかし、これらの事例を証明する記録やモデルが見つかっていません。
ミシンの現物が残っているのは、次のティモニエによる制作物が最古だと思われます。
バルテルミー・ティモニエ(バーシレミー・シモニア)の登場
フランスのサンテティエンヌに住むバルテルミー・ティモニエ(バーシレミー・シモニア)は、1825年に仕立屋を開店しました。
1929年にミシンを開発し、翌1930年に特許を取得。同1830年に最初のミシン実用化をめざして、両針を使いました。
ティモニエの開発には、国立高等鉱業学校サンテティエンヌ校の教師M.フェラントがパトロンとして控えていました。
彼は、針を上下に動かすホイール駆動のコネクティングロッドに針を取りつけました。学校を修了してから、彼は機械工として仕事を始めました。
そしてミシン製造所兼販売所を開業するにいたります。彼の製造販売したのは環縫ミシンでした。
しかし、クリミア戦争に赴くナポレオン軍に80台のミシンを1度か2度提供しただけで、手縫いテーラーたちから1841年に店を潰されました。「手縫いの仕事を奪う」との理由でした。
当時のフランスはイギリス産業革命の影響でイタリアとともに停滞し、イギリスが絹織物業や綿織物業の世界競争で中心的な存在になっていました。
その結果、フランスでは手縫いのアパレル産業が進展し、ついでにデザイン部門にも注目が集まっていました。
このような背景から、フランスでは裁縫を仕事にする人たちの神経がピリピリしていたのかも知れません。
とはいえ、ティモニエもまた、世界中で溢れかえった糸と織物を捌くために動いたのであり、手動の裁縫業者たちもイギリス産業革命を起因とする点でティモニエと同じ穴の狢(おなじあなのむじな)です。
フランスのローヌ地方アンプピュイにはティモニエ博物館があります。
詳しくはトリップアドバイザーの紹介ページをご参照ください。
関連リンク 2018年 Musee Barthelemy Thimonnierへ行く前に!見どころをチェック – トリップアドバイザー – トリップアドバイザーのバルテルミー・ティモニエ博物館のページ。博物館はフランス東部のローヌ県アンプピュイにあります。口コミによると、この付近でミシンを発明したのは6人がかりだったとか…。
ミシン先進地の欧米諸国でミシン開発が停滞(1840年代まで)
フランスではミシン開発は早期に着手されたものの、ミシン産業としての展開は不拡大に終わりました。
そして、ティモニエの前後、人々は、ヨーロッパやアメリカで半世紀にわたってミシンを発明しようとしてきましたが、大きな成功を収めませんでした。
ドイツの経済学者カール・マルクスは「既製服生産」を英語で書くしかなく、適当な用語は存在しませんでした。
die Produktion von “Wearing Apparel”Karl Marx & Friedrich Engels, “Werke, Band 23”, Dietz Verlag, 1962, S.494.
イギリスやドイツなどにおいても、1860年代の段階で衣服産業は端緒についたばかりだと考えられます。
そして、ミシンは1840年代から1860年代の間に、アメリカを舞台として開発ラッシュに突入します。
環縫ミシンの開発小史
これまで紹介してきたミシンの発明や開発は、本縫ミシンか環縫ミシンか明らかでない点も少しあります。
おおむね、いろんな本では環縫ミシン開発がミシン全体を開発を引っ張ったとしています。
イギリスのトマス・セイントは1790年に環縫ミシンを世界で初めて作ったといわれます。
このミシンは水平送り板、垂直降下の実錐、実錐孔に糸を通す叉状棒、それを指示する腕、布の自動送出など「現在のミシンの要素となっている部分の基礎形を多く備えていた」といわれます。
その後、環縫ミシンは改良されていき、19世紀前半のアメリカに限ると、ジェイムス・ギブス(James E. H. Gibbs)、チャールズ・ウィルコックス(Charles H. Willcox)、ロビンソン・アンド・ロパー(Robinson & Roper)らが製作をはじめました。
しかし、当時の環縫ミシンにはデメリットが多すぎました。
- 使う糸の量が多い
- 縫目が膨らみ糸の締りが弱い
- 1本糸では解けやすい
といった欠点を当時の環縫ミシンはもっていました。
次の図は、意外に別物として開発されてきた両者の発展を系列にしたものです。
系列の2つのスタート(環縫ミシンと本縫ミシン)がはっきりしてくるのが、1840年代のアメリカでした。
1840年代のアメリカ:ウォルター・ハントとエリアス・ハウ
まずはロルト『工作機械の歴史』から当時の概要をご紹介します。
1846年にエリアス・ハウは新しいミシンを発明し、すぐにライバルのウィルソンやシンガーやギブズもそれにならっている。ミシンは、兵器工場で発達した方法で作るのに適した精密機械であり、またこの方法によってのみ魅力的な価格で作ることのできるものでもあったので、1850年代にはニューイングランドのいくつもの兵器工場や、工作機械製作所が、この新しい分野に参入してきた。しかし、南北戦争のための大量の兵器需要があって、この傾向は一時中断してしまった。そして南北戦争が終結した後は、<アメリカ方式>の生産法の応用は大きく発展したのである。ライオネル・トーマス・キャズウォール・ロル・ロルト『工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ―』磯田浩訳、平凡社 1989年、220頁
ウォルター・ハントの本縫ミシン
1840年代アメリカでウォルター・ハント(Walter Hunt)は本縫ミシンを開発しました。
ハントの発明は振動腕を設置し、織機に似た糸運びを揺動させて糸環を作り、そこに針糸を通過させたことに意義がありました。
これは本縫ミシン(=錠縫ミシン/ロック・ステッチ・ミシン)にジグザグ縫機能をもたせた最初のものでしょう。
この仮説が当たっていればハントがジグザグミシンの発明者といえます。
エリアス・ホウの躍進
他方、本縫ミシンを発展させ、環縫ミシンの状況をも一変させたのがエリアス・ホウです。
アメリカのエリアス・ホウは服を作るための新しい方法を思いつきました。
1844年に環縫ミシン(チェーン・ステッチ)を開発し、1846年に最初の実用ミシンの特許を取得しました。このミシンを一部では本縫ミシンだったと伝えるものもあります。
ボビンケースを1846年に導入したとも指摘されることが多いので、本縫ミシンとみなす説もあります。
ボストンにてホウは、精密機器を製造・修理していたアリ・デイビスのもとで働いていたときにミシン(ソーイング・マシン)という言葉を初めて耳にしました。
ホウは、丹念に発明を発展・完成させるために手を尽くしました。
そして、5年間の労苦をかけて作業に専念しつづけた結果、1845年4月に、最初の実用的なミシンを完成させました。
彼の論文(特許出願書)は1845年9月22日に特許庁に重要書類として提出され、1846年5月17日に特許権を取得しました。
1850年代:米国ミシン製造業の勃興
その後、米国では環縫ミシンと本縫ミシンの両方で開発が続けられました。
オチからいいますと、1851年のアイザック・メリット・シンガー(Isaac Merritt Singer)の登場をもって完成感が出てきました。
シンガー
アイザック・メリット・シンガーの特許(US10597A)は1854年3月7日に発行されました。
この特許はエリアス・ホウの概念をふまえて、後部に針を保持する剛性アームと針の上向きストロークに対して、布を押さえる垂直バーを含めたものでした。
参考 US10597A – Iprovement in sewingtmach – Google Patents
ウィルソンとウィーラー(ホイラー)
1850年頃に、アレン・ウィルソンは往復シャトルを開発しました。これはシンガー社のミシンとエリアス・ホウのミシンを改良したものでした。
しかし、ジョン・ブラッドショーも同様の装置を特許取得しており、訴訟を起こす恐れがありました。
アメリカのアレン・ベンジャミン・ウィルソンは1851年に画期的な回転カマを使った本縫ミシンを開発しました。特許も取っています。
この回転カマは全回転式カマというメカニズムで、カマを揺動せずにボビンケースの周囲を一定方向に1針に2回転の割合で回ります。
このメカニズムを開発してから、ミシンは糸巻量を増やし、毎分500針から600針ほどを縫えるようになりました。これはその後の本縫ミシンの基礎を作りました。
また、ウィルソンは回転カマを改良して回転鈎(回転クラッチ)にして、1854年に「四節回転送り金」(四作動送り装置)も発明しました。シャトルの代わりに回転式フックを備えたミシンを製造したのです。
この発明は、結局、他の方法よりはるかに静かで滑らかにミシンを動かせました。
アレン・ウィルソンはナサニエル・ホイーラーと提携し、ホイーラー・アンド・ウィルソン社を作りました。
ホウ対シンガー
1850年代をつうじて、ますます多くの会社が設立され、互いに訴訟を起こそうとしていました。
ホウは特許権を侵害されたとしてシンガーに訴訟を起こして勝ち、シンガー社や他の会社はホウに対してロイヤリティを支払うことになりました。
他方、アイザック・メリット・シンガーは独自の特許を1850年代に集中して取得していきました。すでに述べた特許(US10597A/1854年3月7日)以外にも。
シンガーの特許取得ラッシュ
たとえば、1851年8月12日にシンガーは改良ミシンのために特許番号「US8294A」を取得。
この特許に続き、シンガーは独自デザインをどんどんフォローアップしていきます。
1854年5月に彼はチェーンステッチ・ミシン(環縫ミシン)の特許を取得。1854年から
1862年の間にシンガーはオリジナルのロックステッチ(本縫)用の往復シャトル機を改良。これによって11件もの特許を取得しました。
さらに、1867年までに本縫ミシンの振動シャトル機械の改良のために3件の特許を取得。
これらの特許は結局20件に達したといわれます。
19世紀中期アメリカにおけるミシン開発
ミシン開発をヨーロッパとアメリカから述べてきました。
19世紀中期アメリカにおけるミシン開発において、現在も含むミシン産業の原型ができます。これまでの記事のまとめとして、新情報も少し入れて整理します。
19世紀中期アメリカにおけるミシン開発は次の人たちの功績をあげられます。
- ウォルター・ハント
- エリアス・ホウ
- アラン・ウィルソン
- アイザック・シンガー
- ウィリアム・グローバー
- ジェイムズ・ギブス
彼らの発明群は、それ以降のミシンすべてのモデルに対して基本的な概念とメカニズムを与えました。
エリアス・ホウの偉業
とくにエリアス・ホウの特許類の優位性は圧倒的でした。彼の息子、エリアス・ホウ・ジュニアもまた、父の偉業と同レベルに考えてよさそうです。
後代には電気モーターやフットコントロールが追加されました。これらでさえ、ホウの基本的な動作原理を根本的に覆したわけではなく、則ったままです。
それを考えると他の発明者たちでも、ミシンの自動化で一番深い発明をしたエリアス・ホウには匹敵しません。
また、アラン・ウィルソンはミシンの革新者として尊敬されています。
アイザック・シンガーの強み
アイザック・シンガーの名前は発明者列伝であまり言及されません。
しかし、シンガーの小型の実用的ミシンは、縫製業界に大きな信頼を与えました。その後もシンガーは継続的に開発を進めたので、シンガー社はすべての競合他社と歩調を合わせることができました。
研究者たちはよく創業者シンガーの技術開発よりも経営能力だけを評価しますが、それは間違いです。エリアス・ホウのミシンと比べるとシンガーのミシンのメリットが見えてきます。
シンガーは修理のできるミシンを作りました。それまで、ミシン業界全体が衣服産業側から大きな不信感を抱かれていました。ハウのミシンは嵩張ったうえに操作は限られていました。
また、シンガーミシンはホウミシンのような長いシャトルに最初は頼っていましたが、ハート型カムに切り替えます。ホウの車輪駆動式ミシンは、規則的に動くものの近い湾曲した針を使っていました。
ハート型カムに関するシンガーの1851年特許は、真っ直ぐな針が正確に上下運動で振動させるものでした。この大きな技術革新によって、故障が少なく継続的にミシンを使うことができるようになったのです。
優れた発明が多いにもかかわらず実用性で劣るエリアス・ホウのミシンを他社製品と比べれば、ホウや彼の会社が生き延びる道は、もはや訴訟以外に選択肢がなかったようにも思えるのです。
また、ホウがシンガーに対して起こした特許権裁判をつうじて、アイザック・シンガーはエドワード・クラークという法律専門家に裁判を任せるという方法を採ります。
こうして、裁判と切り離してミシン開発をするシンガーに時間的な余裕ができました。その後のシンガー社の躍進はアイザックとエドワードの協力事業となっていきます。
その後:パテント・プールによる寡占状態での均衡
その後、パテント・プール(特許権共有)を採用したアメリカのミシン会社は排他的な寡占状態へと進みます。
寡占に参入した会社もしなかった会社も、挙って熾烈な戦いを繰り広げたのは1970年代が最後でした。この熾烈な戦いを鳥瞰した風刺画があります。この風刺画を説明した次の記事を
ご覧ください。
コメント 感想や質問をお寄せください♪